落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

生活困窮日記 5〜6日目

■4日目までのあらすじ

 何もしていない時間が怖いから単発の工場派遣バイトに参加した。 

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■5日目

 特に予定もなく、この日は日曜で市役所も開いていないため、不安を抱えながらもなんとかリラックスに努めた。

 午前はアマゾンプライムで『美味しんぼ』を観る。Netflix等のサブスクリプションサービスはあらかた解約手続きをしたが、アマゾンプライムだけは契約し続けようと思っている。映画館へ行くことも許されない金銭状況なのだから、せめて自宅では映画やアニメを楽しみたい。

 昼食として、市役所から支給してもらった乾パンを食べた。乾パンの美味しさにモリモリと食べてしまい、乾パンも十分に贅沢品だなと思う。

 午後は図書館へ足を運んだ。小腹が空いても飲食不可で電気代もかからず、どれだけの時間を過ごしても文句を言われない。時間を潰すにはもってこいの環境である。
 図書館で読書に耽っていると、派遣会社から電話が届き、翌日の工場バイトが人手不足だから入ってくれないかと頼まれる。翌日は市役所へ行きたかったため申し出を断ったところ、じゃあ翌々日はどうかと更に問われ、了承した。

 夜はエクセルで作成した収支予測表を微調整。細かく計算した結果、11月半ばまでは黒字でいられる見込みが立ったが、何か支出項目を見落としている気がしてならない。

 

■6日目

 午前は『美味しんぼ』を観るなどしてダラダラと過ごした。

 午後から市役所へ出向き、家賃補助の申請を正式に行う。併せて、ハローワークの就労支援員と市と提携している民間人材紹介会社の職員の紹介を受けた。

 ハローワーク就労支援員のおじさんと少しの時間だけ面談をしたが、アルバイト蔑視発言が目立ったり、精神疾患歴は隠して就活をしろと提言してきたり、就活の助言からいちいち戦後日本が積み上げてきた資本主義マッチョ精神のようなものが漂っており、すごく苦手な印象を受けた。
 正直、繊細さのかけらも感じさせないあのおじさんには、私の就活を担当してもらいたくない。
 あの手のマッチョメンタルな人が多数派を占める会社なる文化に足を踏み入れる気がまたなくなってしまった。帰属したところで馴染めないし、馴染みたいとも思えない。私のわがままなのかもしれないが、わがままで片付けていい話でもないように思う。

 私たちはいま、文化の刷新を行わなければいけない段階に入っているのだと思う。
 例えば、セクハラの基準がわからなず困惑するセクハラおじさんがいたとして、それはセクハラが蓋をされている文化圏の中でその文化(=習慣)が当たり前だと思って生活をしてきているのだから、異なる文化が自らの習慣に侵食してきたらまあ困惑するのも当然だろうと思う。豚肉を当たり前に食べてきた人が、気づかぬうちに豚肉を食さない文化圏で生活をしていることに気づいて、なぜ豚肉を食べてはいけないのかわからず困惑する、ということなのだと思う。
 人権にまつわる事項なのだから宗教間の食のタブーとは異なる、と思うかもしれないが、人権だって人間が創造した文化であり、普遍的であることを目指してこそいるが決して普遍的ではなく、時間や場所に伴って変化しうるものだ。時代による文化の差は必ず生じる。
 ただ、宗教などと異なる点は、やはりその普遍性で、差や違いを認め合うことで共存を目指すのではなく、その価値観を万人が共通に所持せねばならぬということで、「現在は豚肉タブーの風潮が強くなっているのかもしれないけど、昔は豚肉を当たり前に食べていたのだから別に豚肉を食べることに問題はない」という姿勢は許されない。なぜ?という問いであるなら必要だが、単純にNoと一蹴することはあまりに軽薄だ。

 いま様々なハラスメントに苦しむ多くの者がいる。いまジェンダー意識に苦しむ多くの者がいる。いま労働に適応できず苦しむ多くの者がいる。こうした課題を直視して向き合うことが未来の創造につながるのではないだろうか。
 昔はその程度のハラスメントは当たり前で問題視されていなかった。昔は男女の役割がはっきりしていた。昔はみんな我慢していた。そんな話を持ち出されて納得する者は過去の者の中にしかおらず、現在の課題解決には至らない。
 過去の延長線上にある現在を一度否定し、新たな視点で捉え直すことで未来は開かれる。私たちは文化を書き換えようとしている段階に突入しており、そのためにいま浮上している課題を受け止めていかねばならないのだと思う。

 つまり私は、あのハローワークの就労支援員のおじさんを絶対に認めない。

 

■7〜9日目

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生活困窮日記 3〜4日目

■2日目までのあらすじ

 市の住居給付制度を利用することを決断し、6月から始めるアルバイトと就職活動の両立に悩むことになる。

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■3日目

 早くも水道水の味に慣れてきた。ペットボトルに容れて冷蔵庫で冷やせば普通に飲めるものである。

 午前、ハローワークへ向かう。ハローワークカードの申請と、市役所からもらった住居給付に必要な書類にサインをしてもらう。特に求人を探すなどはせず、帰路につく。
 午後、住居管理会社へ向かう。前日に事情は電話にて説明していたが、改めて状況を話し、必死に頭を下げながら書類にサインをしてもらう。
 自宅から離れたところに管理会社があるため移動に電車を利用したが、500円程度の電車賃に肩を落とす状況にまで追い込まれるとは、さすがに前職を辞めた時点では想定していなかった。
 帰り道の途中、ドラッグストアで消耗品の買い足しを行う。タイミング悪く消耗品が切れ始めたため、出費が続く。頭が痛い。
 悩んでいても仕方がないため、翌日に工場派遣のバイトを入れる。

 

■4日目

 初めての工場バイトと久しぶりの早起きを不安視していたが、無事早朝に起床でき、バイト内容もライン作業ではなく清掃業務だったため黙々とこなすことができた。昼食用に持参した、ごはんに食塩とふりかけを混ぜて丸めた物体(≒おにぎり)もそう悪くなく、水筒に入れた水道水ももう慣れた味だ。米は母から支給してもらっているため備えがある。食費を抑えるために積極的に米を食べていく所存だ。

 工場バイトの体験は得るものも多かった。いま日常には様々なモノが溢れているが、それらが全て工場で生産され、どこの工場にもこうしてたくさんの人が派遣され、安い時給で日々単純作業に打ち込んでいるのだと思うと、自分が今後どう生活を送ればいいのかを見失ってしまう。若者から主婦と思しき方、中年のおじさんなど、幅広い層の人が工場の非正規で働いている様子がそこにはあり、数字では見たことのあった製造業従事者の多さと非正規雇用労働者の多さの一端を目の当たりにする。
 コンビニの商品を買うだけでも、店員のアルバイトだけでなく、商品の製造に携わる人、管理に携わる人、運送に携わる人…などと莫大な人の手に支えられていることに改めて思いを馳せる。そこに非正規雇用と呼ばれる人たちがどれだけ関わっているのだろう。途方のない絶望感の中で、この構造の中に自分がどうハマるべきかがわからなくなる。

 あるいは、自分が実際に生活困窮状態に陥ったことで初めて無意識のうちに裕福な暮らしをしていたのだと気付かされる。いや、それほど裕福な暮らしではなかっただろうが、日常的にコンビニで商品を買い、月額制サービスにとりあえず課金しておき、おいしいラーメンを食べ、観たい映画があったら観に行き、読みたい本があったらとりあえず買って積んでおく、そんな生活が実はかなり豊かであったことに気付かされる。 
 文化は人の心を豊かにすると思っていたが、文化に触れられることが豊かさの証明となるだけで、よほど強い信念と愛がなければ貧困状況で文化に触れようとするエネルギーは体力的にも精神的にも金銭的にも出てこないのではないだろうか。では、文化に触れるエネルギーを有していない者の心が豊かでないかといえば、決してそうではなく、工場派遣で生計を立てているおじさんたちは同じく工場派遣で生計を立てているおじさんと楽しく生活を送っているわけだ。
 というか、そもそも“豊か”ってなんなのだろう。文化に触れられることは、心が豊かなのではなく単に生活のあらゆる面で余裕があるというだけだ。余裕があることは豊かさを獲得するための条件の一つではあるのだろうが、余裕がないからといって必ずしも生活や心が豊かでないはずがない。

 これまでは常に社会ってクソだよな、と思っていた私だが、いまとなっては社会になんか興味が湧かず、まず自分の生活をどうにかしなければ、という思いで頭がいっぱいだ。公的制度を利用して生活を自立させようとしている身としては政治や社会、地域などの事柄は重要事項であるはずなのだが、例えば、いまは政治という文化に関心を持っている場合ではないという矛盾が生まれてしまっている自覚がある。ドナルドトランプがどこで何をしてようが、全く関心が湧いてこない。
 近くにあるはずのものが遠くにあり、遠くにあると思っているものが実は近くにあるこの状況を正確に判断するために、市役所の人が相談に乗ってくれたり、友人が助言をくれたりするんだな、などと思う。

 話が散らかってきたので4日目の記録はここで終わろう。とにかく、ホワイトカラーだった前職に就く前に工場での労働を体験しておきたかった、ということを思っている。

 

■5〜6日目 

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生活困窮日記 1〜2日目

■0日目のあらすじ

 バイトの内定が決まり、無職からフリーターへ昇格した喜びもつかの間、6月分の収入が振り込まれる7月中旬までの生活資金が不足していることに気づき、めちゃくちゃ焦る。

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■1日目

 前日の昼から生活に緊張感が生まれ、空腹を感じることもできず、この日は朝食も食べずに市役所へ向かう。

 事前の調べによると、我が国には「生活困窮者自立支援法」なるものが制定されており、生活保護に至る直前の段階に突入した者は公的機関の支援を受けながら自立を目指すことができるらしい。
 私が在住する自治体では、借入金制度(生活福祉資金)や家賃給付(住居確保給付金)などの制度が整っているようで、また生活困窮者向けの相談支援が予約なしで受けられるとの情報を市のサイトから得られたので、私の状況はそれら制度の利用ができる状態なのかを相談すべく、まず市役所へ向かおうと判断する。
 担当の相談員によると、
「家賃給付や借入金制度を利用するにはハローワークに週一で通うなどの一定の就職活動をする必要がある」
「借入金制度の管轄は市役所ではなく市の社会福祉協議会である」
とのことで、とりあえずこの日は制度説明を聴いて相談を終了した。
 その後、市役所内で年金保険料や住民税が払えないことの相談を各窓口で済ませ、帰宅する。 帰宅途中に寄ったスーパーで新たまねぎが1個33円で売っていたため3つ手に取り、50円のしめじと一緒に購入した。
 自宅にて早速社会福祉協議会へ電話をし、翌日に面談をさせてもらう予定を入れた。この日にできることは特になくなったため、前日から作り始めた収支予測を微調整しながら今後の生活の行方を憂い、ミネラルウォーターなんて贅沢品だと思いながら水道水を喉の奥に流し込む。

 

■2日目

 午前から社会福祉協議会へ借入金の相談をしに行く。制度の説明、必要な書類、借入金制度を利用するために市の住居給付を受ける必要がある、などの説明を受ける。
 借金をする前に市役所管轄の住居給付を受けなければいけないとのことで、午後は前日に引き続き市役所へ向かう。 社会福祉協議会の担当者が市の相談員に電話連絡しておくとのことだったため、話の引き継ぎはスムーズだった。
 市役所にて、悩みや不安を打ち明けたり、何かと迷いが生じたりでなんだかんだと3時間ほど相談をさせてもらい、とりあえず住居給付の申請をさせてもらうことになった。必要な書類に、ハローワークで交付してもらうものや、賃貸物件の管理会社に書いてもらうものなどがあるため、それらを集めた後に再訪することを約束する。帰りに食料支援として、賞味期限が直前の非常食を支給してもらう。午後の大半を私の相談に費やしてくれた相談員の方には頭が上がらない。

 住居給付の申請をするにあたり、今後はハローワークにて就職活動をしなければならないことがほぼ確定し、ここまで5ヶ月続けて一切実らなかった就活に疲れ一旦アルバイトをしながら休養しようとしていた私のプランは崩壊する。
 6月からのアルバイトと就活をどう両立させるか、万が一早めに正規雇用での内定がもらえた場合は始めたばかりのバイトにどうけじめをつけるか、などに頭を抱えることになる。アルバイトとはいえ、雇ってもらってすぐに辞めるって無責任すぎやしないだろうか。私には変に義理堅い一面もあるがゆえに、こうした妥協が下手だったりする。

 市役所の相談員、友人やSNSのフォロワー、親や兄弟など、とりあえずなんでもいいのだが、困ったときに親身になって支援をしてくれる人がいると心から救われる。具体的なアドバイスはもちろんだが、直接的な助言でなくても、声をかけてもらえるだけで焦りや不安から解放されることができる。今後、金銭面でかなり苦しい生活を送る必要があるが、お金がないことを理由に人付き合いを断ることはなるべく避けたいと思っている。お金がなくても人は大切にしていきたい。そして、身近な人が何かに困ったときに側で力になれる存在に、いつか自分もなっていきたいと思う。

 支えてくれる、心配してくれる人たちへの感謝を思いながら、NetflixApple Musicなどの解約手続きをすませた。

 

■3〜4日目

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生活困窮日記 0日目

 

■0日目

 弊ブログやツイッターなどでも散々書いてきたが、昨年夏頃から精神的ストレスにより仕事を休職し、復職することなく昨年末で退職。今年の1月末くらいから再就職に向けてマイナビリクルートを駆使しいくつかの会社の求人へ応募を出してきた。
 新たな年度までには新たな職を、と意気込んで動き出したが、結果が実らないままいつの間にかプロ野球のオープン戦が始まったと思えばレギュラーシーズンまで開幕してるし、イチローが引退したかと思えば大谷翔平が怪我から復帰する始末である。
 ゴールデンウィークを過ぎた頃には求人への応募数が50を超えていることに気づき、うち15〜16社は面接の機会も得られたのだが、どれも内定にはつながらず、そもそも私は労働者として社会に参画するスタートラインに立てていないのではないか、と自己を卑下することくらいでしか心の平穏は保てないときも多々あり、自己卑下をした後は外へ遊びに繰り出し、やれ映画館へ足を運んだりラーメンを食べたりしながら、なるべくストレスを抱え過ぎないよう日々を過ごした。

 5月を過ぎた時点で相当な焦りはあり、特に生活資金面ではかなり苦しくなってきている予感があって、収入ゼロで生活を送れるのは5月までだと察してはいたが、家計簿をつける習慣もなければ月々の出費の予算も立てていない私は感覚でのみ生活の苦しさを把握し、実際にどれだけ苦しいのか、どれだけ危険地域に足を踏み込んでいるかまでは、この時点では確認をしておらず、ペースこそ落ちたが相変わらず映画館へ足を運んだりラーメンを食べたりしていた。
 焦って職が決まるわけでもなく、しかし収入がゼロなのはいかがなものだろうと思い、思いつきで単発の派遣バイトを入れ、約8ヶ月ぶりの労働に挑んだもこの頃だ。また、転職エージェントシステムに利用申請をしたり、正規雇用が無理ならばとフルタイムでアルバイトを探したりなど、少しでも行動指針を変えて状況を打破しようと試みていた。
 アルバイトについては、これまでも正規雇用での再就職を目指す傍らでちらほら応募をしており、それすら不採用が続く有様であったのだが、それでも正規よりは非正規の方が雇われやすいだろうとアルバイト探しに重きを置き始めたのが5月上〜中旬のことである。

 5月中旬に応募したアルバイトのうち1件の書類通過があり、そこは面接を受けたその日に無事内定をいただけた。これでようやく収入の当てを確保できたと安心したのも束の間、送られてきた契約書類を確認すると6月勤務分の収入を振り込んでもらえるのは7月中旬ではないか。
 いや、よくよく考えれば当然である。基本的には労働の対価は労働の後に支払われるものであり、前払いなわけがなかろう。5月に労働できていない時点で6月も基本的には収入がないという事実に、この時点でようやく気づいた私は、私が思っていた以上に生活が困窮していたことを理解する。

 慌ててエクセルを立ち上げ、現在の預金額と今後の支出見込みを表に打ち込むとこいつはびっくり、次月に家賃を振り込んだ時点で預金額が0を突き抜けていくではないか。なんだ-30,000円って。
 激しく動揺し、これでもかというほど頭を抱え、いい歳をして部屋でひとり涙を流した私は、いまの浪費生活を続けていては満足した生活は送れないと覚悟を決め、
(1)公的な生活支援制度を利用して貯金額がマイナスになるのを防ぐ
(2)収支予測からマイナスが消えるまでお金のかかる遊びや外食に出かけない
(3)これを機に無計画な出費をやめ、計画的に家計をやりくりする
 以上を決意する。

 

 

 

 

 

 

 のんきにとんかつ食べてる場合じゃないぞ、このやろう。

 

 

 ■1〜2日目

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いまだに職が決まらない話

 相も変わらず求人サイトを眺め、気が向いた企業に応募を出し、時には面接を受けるなどを挟みながら、お祈りのメッセージを受信する日々を重ね、一向に私という個人に必要性を見出してくれる企業様に出会えない状況に肩を落とし、出会えないというか私に価値を見出してくれる組織は存在しないのではないかと不安になりながら、とにかく私という個人が代替可能な存在であり、私の上位互換たる他者が世にはあふれているのであって、私が祈られた企業には彼らが無事採用されているだろうことに思いを馳せ、それはそれで世の中的には幸福な結果になっているのでしょうと妙な納得の仕方で心の平穏を保とうとする。
 読点を臆せず多用した長い一文を書くことに快楽を感じる。読み手のことなど一切考えずにただ己の快楽のみに従い、目の前の文がいつまでも終わらぬようにと願いながら、テキストを打ち込む。その長文癖が染み付いてしまっているのか、志望動機を書こうにもやはり一文が長くなってしまうし、ビジネスライクに整えようと短くわかりやすく修正を試みるのだが、その文章からは自分の身体性が欠如しているようでどうにも私の書いた文章という感覚が得られず、これで自己のPRになどなるわけがなかろうと改めて長文を書き直す。
 こうして社会が求めるであろう姿から遠退く姿勢で就職活動に挑んでいるのだから、当然結果も実らないわけで、もっと世間に適応しろと言われればそのとおりなのだが、ならば世が私に適応してくれたっていいではないか。個人は異質な個人を受け入れられるけれど、社会(あるいは社会の一部となった個人)は例えそれが明らかに非合理的、または非倫理的だとしても異質な個人をいつまでも受け入れないものよね、というのは先日『グリーンブック』という映画を観た際に思ったことで、パブリックな環境であればあるほどに「私自身は別に構わないけど、他の誰かが不満を抱くかもしれない」「私自身は別に構わないけど、規則で決まっているからこの場では許容はできない」と判断基準が特定個人から特定できない何者かである他者に委ねられ、その特定できない他者たる「大衆(public)」が個人に不寛容であるのならば、個人と個人との繋がりで構成される「社会(social)」な環境をいかに増加・拡張させていくかが、個人主義時代では求められるのではないかと思う。個人という幻想を与えられた現代人がその幻想を理性で放棄することはおそらく難しく、ならばその幻想が幻想であることを自覚しながらも、その幻想をどこまで追い求められるか挑んでいかなければならないのだろう。私が公務員というpublicに100%傾いた組織を脱した理由の一つにそうした意識もあった以上、自己を受け入れずに他者をも受け入れないような組織は例えいくら金を積まれようとやはり遠慮したい気持ちが強い。
 生きるために生きようとする気はない、だけどお金がないやら仕事がないやらを原因にヒトが死ぬことはなく、どこまで追い込まれようとそれを苦悩として抱えながら生きなければいけない現実に既にどうにも耐えられなくなり、どうにか耐えていくために落ち着きを取り戻そうと、いま唯一の自分の居場所たる自宅から少し離れてやろうじゃないかと当てもなくJR中央本線に揺られ甲府まで出かけたのはつい先日のことだ。
 八王子から各駅停車で2時間程度、大して離れている土地でもない甲府に何がある訳でもなく、桜の咲いた駅近の公園を夜通し散策し、駅の構内で野宿をし、明け方からまた散歩をして昼過ぎに帰路へ着いた。収入がない状況で交通費だけが飛び立っていき、それと引き換えに手に入れたものと言えば満開の桜と電車内での読書時間、初めての野宿と久々の運動となった長時間の散歩くらいであったが、一日かけて甲府駅近辺を散歩してから身体の調子もよく、運動の重要さと日頃の運動不足を確認できたことはそれなりの価値があったのかもしれない。なにより初めての野宿はいい体験で、規則や伝統に束縛されることを嫌い、自分の思いついたことを好き勝手に試すのが好きな性格ながら、一方で異常に他人目を気にしてかしこまり、失敗を恐れておどおどしてしまう性質をも兼ね備えている私にとって、公衆の場、横になるべきではない場で自己都合に従って寝るという行為は、自身の殻を破るきっかけとしてどこかで活きるのではないかと感じており、例えば再就職先を見つけるに際して何らかの形で活きてきてほしい、というのはただの願望だ。
 肉体的にも精神的にも労働能力がないわけではないため、生活保護などの恩恵を預かることもできない私はやはり働いて金銭を稼ぐしか手段はなく、自ら事業を起こす意思も能力も野望もないためやはりどこかしらの事業主に雇ってもらうしか他ないのである。かといってpublicに加担する大半の企業に労力を貸与する気もさらさらなく、一方で10年後、20年後の世の中をより幸福な構造にすべく既存体制の超克へ挑んでいる企業様を選んでいられるような立場でもない。コンビニエンスストアなどでアルバイトに励むのが私ができる精一杯の世のため人のための行為であるような気もする。
 生活の上で自分の中に生じる腑に落ちなさを紐解きながら、やけに偉そうなことを色々思ってしまう質ではあるが、熱心に勉強に励む教養者では決してなく、むしろ不勉強に不勉強を重ね逃げるようにここまで生きてきてしまった何ら教養のない輩こそが私なのだから、その不勉強さが諸々の腑に落ちなさや世への適応できなさにつながっている可能性も十分に考えられるのであって、やはり人間たる存在が何者であるかとか、人間を機能させるための構造がどんな仕組みであるかなどを少しずつ勉強していかなければならぬよねと思い、明日も図書館へ通うのだ。
 結局、いつまでも再就職が果たせないのも単純に人や会社に認められるだけの能力がないだけなのかもしれない、単純に。

傘の所持を放棄した話など

 ここ1〜2年ほど私の鉄板トークになっているもので「傘の所持を放棄した話」というのがある。
 内容は単純。雨が降っている日、傘を持って外出しても帰りにはどこかへ置きっぱなしだったり、置きっぱなしにしているもんだから雨が降った日に自宅に傘がなくわざわざコンビニで買ったり、晴れていたから傘を持たず出発したら帰りには雨が降っており天気予報を確認しなかった過去の自分にウンザリしたり、ウンザリしながらコンビニに寄って余計に傘を買ったり、帰宅すれば玄関に大量の傘が溜まっていたり……。それに加えて、そもそも傘をさすのが下手だから傘をさしていても足元がやけに濡れていたり、傘を持ち歩くのが煩わしかったり、とまあ傘を所持することで雨に濡れずに済むという利点以上に、傘が存在することで辟易とする出来事ばかりが目立ち、傘があることで却って日々のストレスは増えているのではないかと疑いを抱いたのがきっかけで、だったら傘なんてアイテムはなかったことにしてしまおうと所持している傘をすべて捨て、それ以降は傘を一切購入しないと決めて今は傘なしの生活を送っております、というお話である。
 面白い話かどうかは知らないが、雨が降る日に人と会うと当然のように傘を持っていないのか問われるわけで、そのたびに傘を持つのをやめた話をしているため、必然的に話す回数が増え、気づけばこの話をする機会が多いなあと何やら鉄板トークのような立ち位置に君臨してしまっている。ぼく傘持ってないんですよ、とあたかもウチにテレビないんですよ的なノリでせいぜい500円程度のアイテムを家財の如く扱い出すのはそこそこ滑稽にも思えるし、軽い小話を持っていると便利だなという実感もあるので、傘を持つより傘を持たないというエピソードがある方が生活は豊かになるのかもしれない。
 ちなみに傘を持たないことで小話が増えただけでなく、余計な出費は減ったし、傘の持ち忘れに一喜一憂することもなくなったし、人といるときは割とみんな傘に入れてくれて嬉しいし(一方で手間を取らせて迷惑はかけているのだが、恋人とかの関係性でなくとも物理的近い距離で歩くとすごく楽しい)、何かとメリットが多い。デメリットといえば雨が降った日に濡れるくらいなもので、雨は水なので触れたら濡れるのは当然だし、雨が降るのも自然の摂理だし、雨は天災であって抗いようがなく、こんなとき傘があればなどと思いそうになったときは私の生きる環世界に傘なる存在はないという設定を強く意識し、空から水が落ちてきて身体が濡れて冷えがちなタイミングもあるのが地球で生きていくことであると当然のように過ごすだけである。
 この「あるものをないとする」という生存戦略は他にも汎用できるのではないかと最近考えている。例えば、いま職がなく再就職先も一向に見つからず将来が不安になっている私だが、不安とは苦しみそのものではなく苦しみが訪れるかもしれないという気持ちな訳で、つまり不安の原因は職がないことではなく、定職に就けずフリーターとして生活することになれば将来的に金銭で困りそう、といったところだろう。フリーターだとなぜ金銭で困りそうなのかと問われれば、時給制であるとか、手当や賞与がないだとか、長く勤めても昇給がわずかだとか、そんな類いである。であるならば、それらはそもそも「ない」ものにしたりしまえばいいわけで、手当や賞与などの制度は存在しないと設定すれば賞与があればもっと楽に生活できるのに……と思い煩う必要もなくなる。時給制にしても賞与にしても昇給にしても前職や正規雇用での待遇と相対化するがゆえに心配になるだけなのだから、相対化などしなければいい。あるいは、自分に未来があると思い込んでしまっているから将来に対する不安を募らせてしまうのだから、未来なんてものは「ない」と設定してしまえばいい。余計な悩みに費やすエネルギーがあるなら読書に耽っていた方が幸福度は高くなるだろう、ならば「ない」ことにして心置きなく読書に励もうではないか。おそらく私にはそうした人間が歴史の上で創ってきた概念を無視する生き方のほうが向いているような気がする。
 未来をないことにできるなら、過去もないことにしたっていい。私には秋田県出身で地元の阿呆な高校を出て東京で就職して3年半で辞めたという事実があるが、「秋田県出身で地元の阿呆な高校を出て東京で就職して3年半で辞めたという設定」という設定で過ごせば肩の荷も下りるのではないか。世界五分前仮説を信仰する奇人のようになってしまうが、過去に束縛されてしまいがちな私なら、過去がこういう設定になっているからいまこうなっている、と意味不明な割り切りをした方がおそらくストレスは少ない。
 過去という経験は現在を構成し、体系化された過去は未来へと超越する。それが人間の認識であるが、それは人間の認識でしかない。過去・現在・未来というパラダイムから脱却し、記憶という朧げな体験を朧げであるがままにし、現在に渡って与えられている文化を時には拒み、未来を創造する信念を放棄する。なんかそういう生き方ができないのかな、とかつい考えてしまうせいでいつまで経っても再就職先が見つからないのである。社会全体でそんなことを言い出したら秩序は狂いそうだが、個人の生存戦略としてはそこそこおもしろいんじゃないの、と本気で思う。
 まあのんびりいきましょうね。

近況をただだらだらと書いただけのやつ

〈1〉
 再就職先を見つけるべくマイナビへアクセスし求人検索をする。いくつかの求人を眺め、この企業が行う事業は本当に世に必要なことなのだろうかと、知ったような顔をして偉そうに難癖をつけながら、結局求人を眺めただけで何かを達成した気になり満足気にブラウザを閉じる。責務を果たした後は心置きなくアニメを見て、飽き次第ツイッターを眺める。目に疲労を感じたら、横になって瞼を閉じながら脱力し、意識をどこかへ葬り去る。暇を優雅に過ごす日々を飽くことなく繰り返し、気づけば外はいくらか暖かくなっていて、日と時間帯によっては室内の方が冷え冷えとしているようなのだが、いかんせん滅多に外出をしないから室内外の温度差は定かではない。
 日毎に気候は明らかに冬から春へと移行しているが、私の状況は1月末に書いたブログ時点から何一つ進展しておらず、変化といえばせいぜい御社からいただいたお祈りの数が増加した程度だ。ここまで企業各位から必要とされていない旨の通知をもらうと自信パラメータが凄まじい勢いで底値をぶち破っていくことは皆も知るとおりであり、仕舞いには私が企業に提供する1時間に985円(=東京都最低賃金)もの価値があるのかどうかすらわからなくなってくる。1時間985円に見合った労働をする自信がないのだ。これは例えば友人と遊ぶにしても、私の1時間とあなたの1時間との濃度の差に耐えきれず、天秤の釣り合ってなさに申し訳ない思いでいっぱいになり、不足分を現金で支払うので私と遊んでくださいませんかと頭を下げるべきなのではないだろうかと心配になる。集う理由が一致したから遊ぶのであり、対等な立場であるのだから労働契約とは話がまったく異なるのは承知なのだが、友人にメールを送ることですら怖気付いてしまう(メールを見ていただく、返事を送っていただくためにあなた様の貴重なお時間を割いてしまうのはどうにも恐縮してしまう)状況で求人に応募などできるわけもなく、お酒を飲んだり将来への不安が突如大きくなったりでもしなくては書類審査すらお願いできず、何かの間違いで面接にお呼ばれしてしまった場合にはうろたえる以外の動作を失念してしまう可能性が大だ。いっそ友人に対価を支払うから私と遊んでくれと頼み込むように、そんな頼みを本当にしたことがあるわけではないが、お金を払うから社会的責任を付与してくれと企業にお願い申し上げたくもなるこの頃であって、実際問題関心のある事業に携わらせてもらえるならば月額1万円くらいなら喜んで支払いたい気持ちはいくらかあり、むしろ参加費を支払って参加する程度の距離感の方が支配関係が適度に保たれるんでなかろうかと思わないこともなく、とはいえ面接の機会に月額1万円払うので雇ってくださいとの交渉に踏み切れるほどの度胸もないのである。
 ツイッターを見ればつい先日仕事を退職したと書いていた人が次の勤め先決まったと書き込んでいるなどしており、他人は他人、自分は自分と思いながらも、やはり焦りが発生し、今日も机の下で行われる貧乏ゆすりは止まることを知らない。

〈2〉
 いくら呑気な私でも収入がないことには生活が営めないことくらい認識しており、収入の見込みがない現状が続くのは危機的であることも理解しているため、正規雇用契約社員での勤務は一度諦め、時給制のパートに応募し本日面接を受けてきたところだ。週5日1日7時間勤務の時給1,000円という条件でこの先に過酷な生活が待っていることは目に見えているが、時給0円生活をいつまでも続けてはいられない、そもそも私の1時間に985円の価値があるのかすら自信がないのは前述のとおりだ、1,000円もの価値を見出してくれるのであれば万々歳である。高望みはせず最低限の条件で雇ってもらい、どこかのタイミングで夜のバイトも入れるなどして時間を切り売りしながら細々と生活を送る以外にもはや選択肢は残されていないため、なんだかんだで半年以上労働から遠ざかっているのだからリハビリとして1年ほど単純労働に励み、来年4月の定職獲得を目指す道もアリではないかと自分に言い聞かせてはいるが、なにか典型的フリーターの末路を辿っているようで気が気でない。
 あるいは、一日7時間勤務というゆとりを生かして、それこそかねてより希望している文集づくりなどに着手してもよさそうだが、一人で行動を起こせない性格が邪魔をしていまいち企画づくりには乗り出せないし、何かをつくる遊びを気軽に誘える友人もおらず、仲の良い友人が近くにいる人が羨ましいなあとおそらく小学校高学年の時から抱いているだろう思いをいつものように掘り起こすのだ。結局私は友達という存在に憧れていて、友達という存在と心ゆくまで遊んでいたいだけなのだと、最近は自己に渦巻く欲望には自覚的であり、なぜ友達と遊ぶことに憧れているかといえばやはり幼少期からの羨望や嫉妬に起因しているため、そろそろ忌々しくも付き纏う過去から解放されたいのが本当のところだ。

〈3〉
 安定した職に就いて、安定は別にいらないかもなと退職し、いざ不安定な生活をしているとやはり不安なもので、何が不安かといえば一番に金銭である。人間という存在はどうやら能動的に死ぬことは許されておらず、生きる術を失っても死んではならず手段がないなりに生きなければならないという苦を請け負っている。人間の生命は生死の二項対立で済む話ではなく、生と死の間に更にいくつかの段階があって、死のひとつふたつ手前くらいが死以上に残酷な段階なのではないだろうか。そして今自分はどの段階にいるのだろうかと不安が発生し、寝て、忘れて、また夜になるとより大きな不安として現れる。
 私は不安を払拭するために本を読む。連なった文字を読み取り、文字を連ねた人物の思いを少しでも汲み取ろうと励む。他人が書いた文章は私に安らぎを与える。
 結局のところ、不安が生じるのは自分の意志がないからで、ここで言う意志とは軸だとか物差しだとかコンパスだとかの意味合いになるのだが、意志がないからやりたいと思っていることにも踏ん切りがつかないし、意志がないから組織から与えられた意志に従って与えられた仕事をしているのが安定していられるし、意志がないから本を読んで他人の意志を覗き込めると安心できるのだと思う。
 私は私が何をどうしたいのかがわかっておらず、それどころか何をどうしたいという思いを抱いてすらなく、ただなんとなく資本主義経済の下、消費社会の下、それらの名詞が一体なにを意味するのかもわからないまま動かされるように動いているだけなのだろう。
 私なる意識、意識なるなにか、それが一体なんなのかもわからずに自己をPRできるはずもなく、志望の動機を見つけられるはずもなく、いつまでもスタート地点でぐるぐると廻り続けてしまう。振り返れば中学三年の頃はよくわからないから高校進学しなくてもいいのでは、と言い続けて親や担任教師を困らせていたし、高校三年の頃も生きる意味がわからないから進路を決められないとこれまた親や担任教師を困らせていた。23のいま、親や教師がいなくなった状況で私はまたわからなくなっている。あるいは、ついわからなくなってしまうのが私なのかもしれない。わからなくなってしまうことを繰り返していまに至り、いまもなおわからなくなっているのであれば、わからなくなるのが私の自然体であり、わからなさとどう向き合っていくのかが私が生きる上でのゲームなのかもしれない。

 本稿において何を書きたいのかもわからなくなっているのでもうやめにしよう。いま私が述べたいことは『映画ドラえもん のび太の月面探査記』がかなりおもしろいということだけだ。