落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

私の腕を切り落としたい

 自意識が強くあらわれてしまうことが苦手だ。私は自意識を嫌悪してしまう。己の自意識に気づくと、その嫌悪から死を渇望してしまう。身体を粉々にし、意識を分散させたくなる。
 例えば、ひとに会う。ある特定の他者を積極的に意識すればするほど、他者と対峙する存在として私という意識が際立ってくる。あなたと会う。見る。話す。触れ合う。笑い合う。そうした時間は楽しく、喜ばしく、嬉しいもので、幸福な体験といえる。快い気分のままあなたに別れを告げる。帰路につく。電車に乗る。夜道を歩く。自宅へ到着する。どの段階で何をきっかけにどんな心境の変化があるのかはわからないが、いつの間にか快調だった感情はどこかへ消え去っており、代わりに鬱屈とした感情を抱えている。あなたと会っていた私。見ていた私。話していた私。触れ合った私。笑い合った私。主観だったはずの現在が、わずかすぎる時を経て、客観的な過去として自らの姿を投影し、脳裏を支配する。
 この手が。この身体が。この目が。この顔が。この姿が。他者に意識されたこと、他者に意識されたことをきっかけに私に意識されていること。不快で、傷つけたくて、逃げ出したい思いが、快であった記憶を塗りつぶしていく。
 私の目に、私の腕から指先が映る。肌という膜で覆われ接続された腕や指先という部位は、私の意志によって動かすことができる。いま私は指を動かして文字を打ち込んでいる。正確にいうならば、文字を打ち込もうとすると勝手に指が動く。私にはなぜこの指が私の思ったとおりの文字をPC画面上に表示させてくれるのか理解ができない。あるいは、私の中で言葉が生成されてから文字が表示されているのか、文字を表示することで私の中に言葉が生成されているのか、その前後関係すらも見当がつかない。この指は本当に私なのだろうか。この腕は。この身体は。この言葉は。この意識は。この私は。どこが私で、どこからが私でないのかがわからない。
 私のような私でないような私のものとして存在する私の腕が、徐々に自らの所有物であると認識できなくなってくる。この腕が気色悪い。私の視界で、私であるかのように動くこの物体が気色悪い。自らの身体という他者を無性に傷つけたくなる。肌をかきむしりたくなる。いっそ腕を切り落としたくなる。
 私の身体に接続されているこの腕を切り落としたら、切り落とされた腕はその後も私のままでいるのだろうか。切り落とされた腕を見る私は、切り落とされた腕を私であると認識するのだろうか。試してみない限りには答えはわからないが、おそらく私の腕は私から切り落とされた時点で完全に私ではなくなるような気がする。だとすれば、身体を構成する各部位を切り落としていけば私は私という核にたどり着けるのだろうか。これも試してみないことにはわからないのだが、こちらの答えはおそらく否であるように思う。
 しかし、切り落とされた腕のそばで、切り落とした腕を見つめ、切り落とした腕なる物質が私であるかのように振舞っていた過去と私であるかのように振る舞えなくなった現在とを、脳内で往き交わせることができたなら、私は私という自意識から解放することができる気がしてならない。私という意識の脆さを、意識が持つ虚構性を自覚できる気がしてならない。
 切り落とされた私の腕という物質は、自己と他者の中間に位置してくれるだろう。かつて自己であったものとして。自己のように動いてくれたものとして。いま動かざるものとして。悠然と転がるかつて私だった腕。意志なるものの介入が不可能となった私の腕。
 私はこの腕を切り落としてみたい。切り落とされた腕を、ただ呆然と眺めてみたい。切り落とされた腕を抱えてあなたに会ってみたい。
 私。あなたの前にいる私。かつて私だった私。私の中に私はいない。私は私ではない。
 私は私について書く。私を置き去りにするために。思考や感情などといった得体の知れないものを自らの身体から切り離すために。拡大した自意識を分散させるために。
 この文字は。この言葉は。この文章は。かつて私だった私。切り落とされた私だった一部。