落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

続・生活困窮日記 第一話

■前期までのあらすじ

・仕事を辞めた
・次の仕事が半年近く決まらなかった
・貯金が尽きそうになった
・生活が困窮している様子をブログに書くことにした
・一ヶ月程度で飽きた
 

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■続・生活困窮日記 第一話

 仕事をしていない期間のことを「人生の夏休み」だなんて言ったりする。いつ終わりが来るのかもわからず彷徨い続けるのが人生だ、要所要所で長い休暇も必要なことだろう。しかしどうして長い休みの比喩として「夏休み」が用いられてしまうのだろうか。もちろん学校に通っている頃には夏季に長期休暇期間が与えられるわけで、それを模しているだけであることはわかるのだが、しかし単純に考えて、暖かい夏の方が身体は活動的でいられるし、休むのなら寒さで身体も精神も縮こまってしまい布団から出ることすら困難である冬に休んだ方が効果的ではないだろうか。つまるところ人生に夏休みを設けるよりも、人生に冬眠を設ける方が適切なのではないだろうか。世知辛いことに世間は休むことに対してどこか厳しい。しかし眠りならば、眠りを省略して生活を送れる者などどこにも存在しない以上、そう易々と非難することなどできまい。他の生物に目をやれば冬季期間中はもっぱら睡眠に費やす連中も多々見受けられる。さらには睡眠はほとんど毎日行われる。休みは必要だ。しかし休みに向けられる風当たりは厳しい。ならば眠ろう。私たちはもっとゆっくり安らかに眠る時間を確保すべきなのだ。

 感染症の拡大が一向に留まることを知らない、と書き記す必要もないほどに留まるどころかその影響は大きく広がっている。外出時にマスク着用者の数を観察したり、鎖国どころか鎖宅すらしていく国際情勢を報道で確認してはグローバリズムってどうなるのかなとか、読みかけのウェルベックの小説はなんとなくこんな感じじゃあなかっただろうかとか、じぶんが感染したら医療費を払えないかもなとか、でもまあ致死率は低そうだし自宅で安静にしてれば治るのかなとか、なんやかんやでどうせ感染することはないだろうなとか、やはりどこか他人事のように思っていた。それが実生活に直接影響──それも悪い方の影響──を及ぼしてくる状況になったがためにこんなブログをまた書き出しているのだが、ブログを書いている余裕があるだけやはりまだどこか他人事でいるのかもしれない。

 公務員を退職し、半年ほどの無職期間を経たのちに、ブックカフェでアルバイトをしている。このアルバイトも気づけば雇われてから10ヶ月も経とうとしている。当初の考えでは半年ほど働いたのちにどこか他の企業に正規で雇ってもらえるようまた就活するつもりでいた。しかし水は低いところに流れるようで、月140時間程度の勤務時間の平穏さに安らぎを覚え、慣れきってしまい、もはやフルタイムで働くことなどできないのではないだろうかと諦めのような気持ちを抱いてしまったり、なぜか自主費用で本をつくることになったおかげで少し忙しくなったことを求職活動をしない言い訳に利用したり、それでもたまに求人に応募してみたもののやはり面接で落とされてしまったり、結局のところ時給1050円でのんきに労働に勤しむ生活に甘んじてしまっている。貯金など到底かなわないその日暮らし。プレッシャーのない緩んだ生活に甘んじている自分が悪いといえばそうなのかもしれない。

 そこに大打撃を与えてきたのがくだんの感染症だ。こちとらサービス業、ある種ひとであることを売りにひとと接する商売でもある。感染症の観点からすれば、ひとと接する以上は感染経路そのものでもある。うちの店は営業どうするんだろうねとはスタッフ間でちょこまかと世間話程度に交わされていたが、東京都知事の外出自粛要請を経て、ついに今日、明日から当面の間は営業時間の縮減と土日祝日の営業休止との宣告がなされた。当然のことながらその間の給料は出ない、職場からの補償もない、国からの補償もない。ついでに感染症の勢いが収束する見込みも当分ないといって構わないだろう。

 感染症の影響がウイルスに感染してしまうことだけであるはずがない。感染症のおそろしい点は、(現に死者が出ている以上は迂闊に言えないが、今回のそれが致死率がSARSなどと比べて相対的に低いという点においては)自らを含むある個人が感染してしまうことではなく、むしろ急速な感染拡大によって医療機関などがパンクしてしまうことの方だろう。しかし、感染症の問題が健康や医療だけの問題に限らず、医療機関のパンクを、急速な感染拡大を避けた結果として、経済などの社会機能がある程度停止してしまうという点については私自身もどこか楽観視していた部分は否めない。感染症は、人体だけでなく人間社会そのものに感染する。そして人間社会そのものに生じた症状は、人間個人の生活に症状を及ぼす。この手の比喩は危険かとは思いながらも、私個人はまだ感染していないが私の生活はすでに感染している。得られていた給料が得られなくなる、これまで営めていた生活が営めなくなる。端的に異常事態であろう。こうした異常事態に対し、社会という共同体がセーフティネットを張ってくれるものだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。じゃあ仕方ないねと納得するほど私は物分かりがいい方ではなく、セーフティネットの必要性の主張は意見として所持していくとして、ただし自らの生活における生存戦略としては国家の対応待ちではあまりに不安定で、権威に生活を委ねるというのも反権威的スタンスを取る以上はどこか情けなく、やはり自分でどうにかするところはどうにかするしかない。
 いちおう本件に際しての生活福祉資金(公的な借金制度)の特例措置が出ているようだから週末が明けたら社会福祉協議会なり役所なりに相談へ行くとしよう。生活福祉資金の申請に際しては、前回の生活困窮時に社会福祉協議会へ相談したらまず親に相談しろと言われ、親も低所得層かつ両親は別居中かつその両者とはいまや縁も希薄である私はその時点で申請を断念せざるを得なかった経験を思い出さざるをえないが、利子が付くことを問わなければ連帯保証人も不要であるようだ。そこは強気で攻めるべきだろう、利子がなんだ。それはそれとして公的権力に頼らず自ら稼がなくてはならない。あまり気が乗らないが派遣バイトへの応募も検討すべきだろう。幸い徒歩30分先には大手ビール工場があり、現在も求人は出ているようだ。経験上工場バイトの業務はあまり得意でないため精神衛生上やらないに越したことはないのだが、できるだけやらずに済む方法を模索しつつも、いざという時にはやはり選りすぐっている場合ではない。賃金を得ないことには生活を営めない。生活を営まないことにはブログも書けない、本も読めない、友人とも関われない、夢や理想も描けない。

 ということで、生活困窮日記 第二期のはじまりである。