落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

生活困窮日記25日目

■24日目までのあらすじ

 塩キャラメルラテのアンチになる。

zero-sugar.hatenablog.jp

 

■25日目

 6月もちょうど半月過ぎた。

 今月分の食費を確認すると15日時点で4,173円と上々のペースで過ごせているような気がするが、この間は母から送られてきたレトルト食品や市役所からの食糧支給に頼っていた部分も大きい。調味料の減り具合も気になるこの頃で、更には最近なぜか食欲が旺盛になってきたこともあり、月末には1万円を超えてしまう気がする。

 昼、ホットケーキミックスを購入する。

 支出を減らすためになるべくお菓子を買わないよう心がけていたが、やはり甘いものを食べたくなる衝動は定期的にやってくる。甘いものへの欲求を満たすべく生活にお菓子は必要であると判断し、それでも毎日お菓子を購入していては生活に支障が生じるため、ならば自作してみようと検討した結果、ホットケーキミックスを使ってレンジでマグカップケーキをつくるのが、時間的にも費用的にも低コストで済むと判断した。

 ホットケーキミックス、たまご、牛乳、マヨネーズをマグカップに入れる。スプーンでかき混ぜる。電子レンジで2分ほど温める。液状だったそれは膨張しながら固形と化す。

 出来上がったのは素っ気ないパンでしかないのだが、できたての温かさとほのかに香る小麦の甘味は貧しい食生活をわずかに彩るには十分すぎるほどで、私の食欲は余計に加速することとなる。

 夜、映画館へ行く。

 先日、ムービーチケットをもらう機会があり、節約のために見逃そうと思っていた『海獣の子供』を観ることができた。

 『海獣の子供』、海と宇宙の物語。

 海、宇宙、そして生命。これらのキーワードから、テレンス・マリック監督の映画『ボヤージュ・オブ・タイム』を思い出す。

 『ボヤージュ・オブ・タイム』は、ドキュメンタリーという体をとり、CGを駆使しながら、宇宙の一元性を再現した作品だ。

 宇宙が誕生する。宇宙に原子核が生まれ、元素が恒星をつくる。恒星の内部では更なる元素が生まれ、恒星の爆発によって元素は散布される。惑星が現れる。地球が現れる。地球の大地が変遷する過程で、有機物が現れる。原核生物が現れ、原生生物が現れ、多細胞生物が現れる。神経細胞が現れ、多様化すると同時に集合を作り、神経系を構築する。外部からの刺激に多様な運動で反応し、各々の個体は環境に合わせて姿形を適応させていく。

 私たちがヒトとして、人間として捉えているいまの世界。それは宇宙の一部であり、また、宇宙全体でもある。宇宙の長い歴史の一瞬であり、また、永遠でもある。すべての宇宙は、諸々の原子によって構成されており、原子の連続性に包括されている。人間は、生物は、自然は、宇宙の連続性の中に集約されている。

 『ボヤージュ・オブ・タイム』では、ナレーションで繰り返される「母よ」という台詞によって、宇宙誕生時点に存在していた粒子が姿形を変えながら現在を構築しているという連綿性が示される。子はへその緒を切られるまでは母の一部であり、その母もまた、子として別なる母の一部であった過去を持つ。生命の母は海であり、海を所持する地球の母は元素を所持する宇宙である。

 その筋ではよく言われることだが、私たちの体は星くずでできている。『ボヤージュ・オブ・タイム』があくまでドキュメントと称して描く内容はそういうことだ。

 『海獣の子供』でも、同様の主題が扱われる。ファンタジーの世界で、とある少女のひと夏の物語によって、宇宙という世界が一元性が示される。

 我々は、この一元の世界を、言語によって二元的に認識する。

 言語、あるいは言葉。人間は、言葉によって一を分断し、差別をつくる。物を分けることで、物を分かる。半分に断ち切ることで、判断する。理に従って分解することで、理解する。通常、人為的に二元の対立差別をつくることで人間は思考する。

 しかし、「一番大切な約束は言葉では交わさない」と本作は強調する。主題歌『海の幽霊』においても「大切なことは言葉にならない」と歌われる。

 『海獣の子供』において、言葉に対する過度な信用は否定される。

 二元的解釈しか成し得ない言葉というツールは、世界という情報の一部を圧縮することしかできない。よって、言葉は真理を破壊する。言葉は、真理を破壊した罪を常に背負っている。

 主人公・琉花は、言葉によるコミュニケーションのもどかしさを感じる。人間が行う言葉中心のコミュニケーションは、言葉というツールの解像度の低さゆえに、対象と対象の関係性に不協和を生じさせる。

 冒頭、琉花は部活動のチームメイトと喧嘩をする。怪我をさせる。部活動の顧問に怒られる。

 言葉で事情を説明することができない。言葉で説明してもどうせわかってもらえない。言葉で謝罪をしたところで、互いの気持ちが晴れ、関係が修復されることもない。

 この冒頭のシークエンスで、早々に言葉の無力さを突きつけられる。

 描かれる教室の背景に「博愛」と書かれた書写の作品や「自分より相手を大切に」と書かれた標語が皮肉のように描写される。

 言語で記されたメッセージの意味を受け手は解釈こそできるが、実感することはできない。たったワンフレーズに込められた意味を血肉とすることなど当然できない。だから私たちは経験を必要とする。言葉ではなく、体験によって、物語によって真意を掴もうとする。

 だから、『海獣の子供』という物語で到達しなければならない境地がある。

 ジュゴンに育てられたという少年・海と空は身体を密着させることでコミュニケーションを図る。また、琉花と海はたびたび手を繋ぐ。琉花と空は口づけをする。言葉を用いず、肌と肌を、互いの身体を接触させることで、彼らは対象の存在を感じ取る。言葉の無力さを知る彼らは、感覚によるコミュニケーションを積極的に行う。

 現代は言葉であふれている。街を歩けば、あらゆる隙間を埋め尽くすように言葉がひしめいている。広告が、案内が、説明が、文字という姿で行き交う人々に迫ろうとする。あるいは、スマートフォンを開けば、世界のあらゆる情報が文字によって公開されている。SNSにより、文字を読み書きする行為がより身近になり、有史以来最も人々が文字を読み、文字を書く機会が多い時代となっていることは明らかであり、現に私もいま画面越しに文字を書いている。

 言葉は情報伝達を可能とし、コミュニケーションを成立させる。私は言葉を利用し、あなたに語りかける。あなたは言葉を利用し、私に語りかける。あなたは私の言葉を聞く。私はあなたの言葉を聞く。言葉によって、私とあなたは接続される。言葉は、私とあなたを接続させてくれる。

 そうかもしれない。でも少し待ってほしい。私とあなたは言葉によって本当につながれているのだろうか。本当に分かり合えているのだろうか。

 私は、あなたが語る言葉を理解し、反応する。いや、あなたが語った言葉の中から、私が認識可能な言葉だけを抽出し、その言葉から私なりの文脈における意味情報を取得し、私なりに解釈する。解釈した気になる。理解した気になる。あなたの気持ちを受けとった気になる。

 あなたは、私が語る言葉を理解し、反応を示す。私が語った言葉の中から、あなたが認識可能な言葉だけを抽出し、その言葉からあなたなりの文脈における意味情報を取得し、あなたなりに解釈する。解釈した気になる。理解した気になる。私の気持ちを受け取った気になる。

 あなたが私の知らない言葉を使った場合、私はあなたのいう言葉が途端に理解できなくなってしまう。私は、私が利用可能な言葉しか理解できない。私は、理解していない言葉を利用することができない。私は、あなたが語る言葉の中から、私が利用可能な言葉しか知覚することができない。

 結局、どれだけ言葉を交わしたところで、私はあなたの中から私を見つけ出しているだけに過ぎず、あなたの中に私を反映させているだけに過ぎず、つまり究極的にはあなたとわかりあうことができない。そうではないだろうか。

 ヒトが環境に適応する中で発達させた言葉なる器官は優れて機能的だ。が、絶対的に信頼できるものでもない。当然といえば当然のことではあるのだが、この言葉過多な時代において、どれだけ言葉の弱さに自覚的でいられているだろう。

  『海獣の子供』において、言葉に対する過度な信用は否定される。明確に、否定する。

 主人公・琉花は、たびたび水に包まれる。暴雨に打たれる。海に潜る。海に飲み込まれる。

 その肌に、その身体に、水をまとう。身体の感覚によって水を知覚する、自然を知覚する、宇宙を知覚する。

 琉花を包む水は、その面を隔てることなく、少年・海と空をも包み込む。海によって彼らは一体化する。

 私にはわからない。琉花が海になったのか、あるいは海が琉花になったのか。

 中国の思想家・荘子は「遊」という概念を打ち出したという。

 「遊」とは、何らかの目的意識に導かれることのない行為であり、世間的な人間社会の視座を超越することであり、作為的人為的なものを棄て去り自然に従うことである。

 『海獣の子供』のエンディングにて、冒頭で喧嘩をした部活動のチームメイトと琉花の関係が修復されることを示唆するようなシーンが訪れる。その場面では、相手が手に所持していたボールが落ち、坂道を下っていく描写がされる。ボールは、一見すると不規則ながら、しかし自然界の法則に従った人為の関与しないその動きで、為されるがままに坂道を転がる。

 『海獣の子供』。圧倒的な熱量が込められたそのアニメーション映像で、言葉の超越を、人為的なるものの超越を試みた作品。私はそれを観て、いま、言葉で語っている。言葉の限界を感じ、言葉の限界を自覚しながら、なお言葉で記述している。

 私は、本ブログにて、私の日常を記述している。今日受け取ったあらゆる作用の中から、知覚可能で、かつ、記述可能な範囲の事象を無意識に切り取り、その日のすべてであるかのように記述する。

 記述可能な事物の裏側には、記述不可能な事物がある。記述された一日の裏側には、記述しなかった一日があり、記述されなかった一日がある。明日記述する「今日」と、明後日記述する「今日」ですら、きっと異なることだろう。

 私は日常を記述する。昨日の出来事を。今日の出来事を。おそらくは、明日の出来事も。

 インターネットに公開している以上、記述された記述可能な範囲の私の日常を、私以外の誰かが読んでくれるかもしれない。私が記述した今日の出来事を読んだ誰かが、そこに書かれた言葉からその人自身を見出すかもしれない。

 言葉は便利だ。言葉があるから、私とあなたは交信ができる。私があなたを分かろうとしたり、あなたが私を分かろうとすることができる。

 でも、私とあなたは分かりあうことはできない。

 それでも、私とあなたは分かりあうことができない、と知ることができる。

 だからこそ、言語という器官に依らずして、私は他者の実在を知覚する、知覚したい。あなたの存在を感覚的性質によって確かめたい。

 私は書く、あなたがいるから。あなたの存在が、私を書く行為へと至らせてくれるから。

 私は書くことが好きだ。言葉が好きだ。言葉の弱さが好きだ。真理を破壊する罪を、言葉と共に抱えていきたいから。

 夜、映画『海獣の子供』を観終えた。

 映画館を出て、自宅へ向かった。

 いつだったか、とうとつに海へおもむき、海沿いや砂浜を散歩したときの記憶がよみがえってくる。

 はてしなく広がる海。水平線は一直線に伸びているけれど、どこからが海で、どこからが空なのかは、はっきり定かでない。海から吹きこんでくる風は圧力を与えてきて、全身にまとわりついたのち、身体の火照りを連れて通過していく。その瞬間に鼻をわずかに刺激してくる潮のかおりが気持ちいい。

 波が、耳をくすぐるような音を立てながら、砂浜を行ったり来たりしている。陸と海の境目は曖昧で、私はけっきょくどこまでが陸で、どこからが海で、どこからが空なのかすべてわからないようだ。

 私は歩く。足を動かす。波打ち際に付けた足跡は、波がきてすぐにかき消される。

 なんでもないいつかの夏の記憶。

 ここのところ、だいぶ気温も上がってきた。まだ6月の半分だけど、あっという間に今年も夏がくるのだろう、と思う。