落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

夢見る頃を過ぎても──映画『空の青さを知る人よ』に寄せて

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※本記事は映画『空の青さを知る人よ』のネタバレを一部含みます

夢を見るとき、人は夢だけを見ているのではない。多くの人は、夢に付随する副産物もまた夢想する。
──樋口恭介(佐川恭一『受賞第一作』あとがき より)

 多くの者は夢をみる。未来に理想の自己像を描き、描いたとおりに人生を導けるよう努力する。夢をみて、夢を追い、夢が破れ、また新たな夢が描かれる。こうして挫折を繰り返しながらも夢を追い続けることは一般に尊いとされる。しかし繰り返された挫折の果てに叶えられた夢は、多くの者にとって当初描いた自己像とはまったく異なった、思いも寄らない形となって現れることだろう。自己像だけが夢ではなく、現実に自己とは環境に支配されているように、理想の自己なる存在も無意識ながらに環境に身を包んでおり、ある主体が環境を思うがままに操作することなど不可能なのだから。こうして部分的にのみ叶えられた夢は、ときに夢みた者にあきらめと絶望をももたらす。
 夢を描くとき、ほんとうに望んでいるのは理想の自己ではなく理想の状況だという場合もあるだろう。どこで夢が叶えられるか、だれと夢が叶えられるか、どのようにして夢が叶えられるか。その差は意識されることなく、夢の分岐点にて当人の判断を狂わせる原因にもなりうる。彼にとっても、どちらの夢が大切だったのか、それは夢が叶う瞬間や夢の選択を迫られる瞬間にわかることではなかったはずだ。
 彼とは、映画『空の青さを知る人よ』の主人公のひとり、〝しんの〟こと金室慎之介のことである。
 彼は夢を追って前へ進むことを選択し、また同時に夢を追って立ち止まることを選択した。通常、ある夢が選択されるとき、同時に叶えられたかもしれなかった別なる夢が失われる。無意識に描かれた夢が失われることに当人が気づくことはむずかしいが、彼の場合、失われた夢は霊的存在としてよみがえることとなる。

 彼は高校時代、ギターを弾いた。バンドを組み、ライブを行った。卒業後は東京へ出てミュージシャンになることを夢みた。 
 同時に、彼には愛する者がいた。彼が愛したそのひとは、彼がギターを弾くときいつもそばにいた。彼が愛したそのひとは彼とともに東京へ行くことを約束したが、それはある事情によって散ったひとつの夢となった。
 彼女は東京へ行けないことを彼に告げる。彼は戸惑い、迷った挙句、彼女への思いを一旦は封じ込め、大物ミュージシャンとなり彼女を迎えにくることを決意する。いや、あきらめることでしか前へ進むことができなかった。彼と彼女はその後音信不通となる。
 13年後、31歳となった彼はミュージシャンとなり、地域の音楽イベントへの出演をきっかけに地元へ戻る。晴れてプロのミュージシャンとなった一方で、大物演歌歌手のバックバンドの一員という形で果たされたその夢は、かつてはるかとおくに志したその姿からは大きくかけ離れていた。彼の夢は叶えられると同時に打ち砕かれ、そんな状況に彼自身も高校時代の陽気でポジティブな姿からは一転し、覇気を失い見た目も心もやつれ、未来などとうにあきらめていた。その横にとうぜん彼女はおらず、彼と彼女の再会も意に反するものとして訪れてしまう。
 彼が13年ぶりに地元へ帰還してしまったその日、彼が高校時代にバンドの練習場所として使用した神社のお堂に13年前の姿をした彼が実体のある生き霊として現れる。物語終盤に、現在の彼と高校時代の彼は対面する。

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 彼は彼女への思いを封じ込めることでしか前へ進めなかった。封じ込めた思いが解かれることはなかった。しかし封じ込めた思いが消えることもなかった。お堂に現れた生き霊としての彼は、封じ込めた思いそのものだった。
 彼は地元という地を再訪し記憶の扉を開くことで、高校時代のなにも知らずなにも怖いものがなかったがしかし夢を選択しきれなかった世界の彼、すなわち封じ込めていたはずの思いと対話を果たす。かつての彼は、いまの彼に向かって繰り返し言う。ダッセェと。そして、将来お前になってもいいかもしんねえって思わせてくれよと。 
 現在の自分という存在は、過去に重ねた選択の結果ではなく、過去に選び選ばなかったあらゆる選択肢の総体の揺らぎとして現れる。ゆえに、想起されたかつての自分、選択しなかった自分、前へ進めなかった自分によって再編集された現在は、現状や未来の認識をあらためさせることもあるだろう。現在を見つめ直し再構築する、それが思い出というものが有する機能だ。そうして再構築された自分には、過去の自分では認識不可能だったものまでもが見えてくることもあるはずだ。

 『空の青さを知る人よ』では、認識しているものごと──本作での例を挙げるなら住む土地や自己や他者、夢や恋心、愛情など──の内側に認識できていないものがさらに広がっているという構図が何度も描かれる。われわれは様々なものを見て聞いて触れて体験する過程でなにかを感じ、なにかを考え、なにかに気づく。しかし全体像をすべて把握することは不可能であり、あらゆる認識は世界の一面でしかなく一部でしかない。見て聞いて触れて体験する過程から得られるのは把握可能な一部の世界をわずかに拡張することに過ぎない。そしてわずかでも拡張できるからこそ体験を繰り返す。認識の解像度を少しずつ高めることによって、いつかその者にとっての重要な気づきが生まれるのだから。
 未来をあきらめた金室慎之介は、故郷に戻り、思い出の地を訪れ、内に宿る過去の自分と向き合った。過去を振り返った現在の彼が気づいたのは、愛していた者を愛していたという事実だった。かつての彼は愛する者を愛していることを自覚していながらそれを上回るほどに無自覚であった。自分が思う以上に彼女を愛していることに、彼が思い描く夢にはいつも彼女の姿があったことに13年の時を経てようやく気づいた。その気づきは、現在の彼がまだ夢へ向かう道のりの最中であることをも気づかせることになる。
 物語のラストで彼と彼女は車の中で会話をする。彼は言う。音楽もあなたもあきらめないと。直後に、Y字路で一時停止した車が右の通路へと曲がっていくシーンが挿入される。

 多くの者は夢をみる。その夢はときに部分的に叶えられることもあるだろう。しかし上述のとおり、原理的に夢は叶えられることはなく、その意味において夢自体が終わることもない。叶えてしまった夢や破れてしまった夢があったとして、それはほんとうに叶えてしまっていて破れてしまっているのだろうか。自ら、勝手に終わらせてしまっているだけなのではないだろうか。
 井の中の蛙、大海を知らず、されど空の青さを知る。井の中にいることを、大海を知らないことを知っている者が、その地から見える空の青さを知るとは限らない。知っていると思っている世界にもさらなる世界が隠れている。そして足元を知る者がなにかを拍子に空の青さを知るとき、さらにその奥にまたなにかが隠れていることだろう。われわれは果てなく認識を繰り返す。何度も何度も空の青さに気づくのだ。