落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

12月25日のやつ

 クリスマスが今年もやってくる。やってこない年もあったのかもしれず、今後一切やってこない可能性も零ではない。少なくとも今年は例年通りクリスマスがやってくる見込みであり、その証拠にクリスマスに照準を合わせるように経済は廻っており、都市はクリスマスカラーに染まっている。
 街のあちらこちらに絡まる発光ダイオードの蔓は一定間隔で熱を帯び、私の、あなたの、彼らの角膜と水晶体を通過し網膜に斑点状の火を灯す。無機質に点滅を続ける光源を瞳に宿した私は、あなたは、彼らは視神経を撼わす波動によってシナプスは発火し、神経伝達物質の放出と受容を進行させる。

 クリスマスが今年もやってくる。それは特別なようで当たり前のことであるが、其の実、当たり前のようで特別なことであるのかもしれない。赤い衣装に身を包んだ髭の者は口周りを覆う仰々しい体毛の奥でどんな表情をしているのだろう。微笑んでいようがほくそ笑んでいようが私には関係がない。あなたには関係がない。彼らには関係がない。それでも私が、あなたが、彼らがのさばる惑星が太陽の周囲をぐるりと回るその間、髭の者はその周期に一度姿を現し、即座に立ち去る。
 髭の者はその年の用が済むと茂った髭を剃り落とし、また一年かけて髭を蓄える。今年見た髭は今年限りであり、来年また会う機会が生じようと過去に見た髭はもうそこに存在しない。剃り落とされた髭は新たなる髭を呼び、新たなる髭は新たなる髭を連ねる。髭は生い茂り、夏には花を咲かせ、秋になると実を熟す。髭から収穫された実は白い大袋に詰め込まれ、出荷されるその時を待つ。人々の身にまとう布の量が一枚二枚と日に日に増えていき、冬が来る。大切に保管された白い大袋の中の実は、今か今かと自らの出番を待ち焦がれる。夜ふけ過ぎに雨が雪へと変わったその日、満を辞して髭の者は出発する。実の詰まった白い大袋を携え、鯨偶蹄目の生物と共に世界中の子どもたちにその実を届けていく。——なんてことが到底あるはずもなく、そもそも我々は髭の者の存在を確認したことすらない。あるいは、私には髭の者どころか私自身の存在すら確証を得ることができておらず、あなたという存在をいかに認識しているかも甚だ不明であり、おそらくあなたも同様なのではないかと思う。
 私はあなたの顔を見て、あなたの名前を呼び、あなたの手に触れる。それぞれのパーツがあなたであり、パーツを統括した総体があなたであり、そのどれもがあなたではない。私にとってかろうじて確実と言えるのは、街を照らす電飾から放たれる光を私の目が受容するように、あなたの身体が放つあらゆる波動が私という物体に何らかの作用をもたらしていることのみである。私は髭の者に触れた経験はおろか、名前を呼びかけたこともなく、目にしたことがあるかも定かではない。

 それでも子どもたちは見知らぬ髭の者に手紙を書き、プレゼントを要望し、見知らぬ髭の者からのプレゼントを手にする。その一連の行為は、私が見知らぬ御社の代表者や人事担当宛の手紙を書き、自己をプレゼンし、採用という名のプレゼントをいただこうと試みるそれに近い。
 私は手紙の宛先を探し、手紙を書く。御社は手紙を読み、返事を書く。返事の内容によっては私は見知らぬ御社の社員と見知り会う権利が与えられ、手紙を書いた当初は知る由もなかった手紙の宛先人を目にすることができる。子どもたちは多くの場合、手紙を書くだけでプレゼントを手にできるのかもしれない。あるいは手紙を書いた上でいい子にしていれば要望したものを受け取ることができるのだろう。しかし私はいい子であることを前提にいい子であると自ら主張しなくてはならない。ましてやいくらかいい子であるだけでは事足りず、いい子を上回るさらなるいい子でありながら、いい子とはいかなる存在なのかを懇切丁寧理路整然と主張しなければプレゼントを受け取ることはできないのである。私は私が何者であるかをわからないままにいい子を名乗らねばならないのだ。
 いっそ私も髭の者として雇ってもらえないものだろうかと、赤いフリースを身にまとい寒さを耐え忍びながら思う師走である。