落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

睡眠 その2

 休職期間が残り十日ほどとなり、ここまでの約一ヶ月でなにをしてきたかといえば、毎日ブログに日記をつけると宣言して案の定最初の一週間程度しか続かず日々寝てばかりいたわけである。

 抑うつの症状が表れると「睡眠は取れているのか」と心療内科の先生なり職場の上司なりに繰り返し問われる。これはもう状態の確認云々というよりかは軽いジャブとしての定型文であり、数年ぶりにあった学生時代の友人に「いまなにしてんの?」と問うたり新入社員と顔を合わせるたびに「仕事慣れた?」と問うたりするような、コミュニケーションのための糸口的機能もあるような気がしてくる。問う方は年間多くても3~4回程度で収まるかもしれないが、新入社員は大多数の先輩社員から一年中「仕事慣れた?」と問われ続けるのであり、慣れましたと回答して仕事を甘くみるんじゃねえと思われるのもなんだか癪だしまだまだ慣れませんといつまでもヒヨコ振るわけにもいかまい。瞬時に考え尽くせる限りの全てのパターンを検討した結果、まあぼちぼちです、といった具合に回答にならぬ中途半端な回答を絞り出しコミュニケーションを図ろうと先方より放たれた「仕事慣れた?」を軽快に捌くことで、ジャブをかわされた先方は釈然としない様子で去っていくのである。先方からジャブを出しておいて一方的に機嫌を損ねて私の好感度が下がるくらいなら最初からジャブを打たないでほしいとこちらも釈然としない気分になるが、こうした機会を経て私の好感度が少しずつ削り取られてコミュニケーションを図ろうと思われなくなるというのであれば一応ジャブの効果は生まれるのであり、それはどちらかというとジャブではなくローキックなのではないかと思い直すのである。

 我々のような紫外線に嫌われし陰の者共はいちいちジャブだローキックだなどと考えてしまうが、どうも陽の方々は特に気にはしないらしい。もしかするとジャブだローキックだなどと考えてしまう人ほど精神がつらくなってしまうのかもしれない。ジャブやローキックを繰り出す方はやはり体育会系であり、心も身体も屈強なのだ。

 ローキックに心を削られ直立することすらできなくなった私は寝てばかりいたわけだが、心療内科の先生が訊く「睡眠は取れているのか」にはちゃんと意味があるらしい。意味があるどころか睡眠が取れなくなる症状が存在するらしい。平均7時間ほど睡眠をとっていた生活を改変し今年に入った辺りから睡眠を4時間程度に留めたサイクルで生活を送っていた私は、抑うつ状態が表れた春先以降は起床のしんどさが倍増したことにより却って睡眠時間が元に戻った(=延びた)ように感じていたが、休職に突入してからはよくよく考えてみると眠りは浅いし夜中に目をさますことも多いし起床が難しくなったのはそのせいだったのかしらんと思わないこともないわけであるが、先月に睡眠障害についての旨は弊ブログにて記し済みであることにここへきて気付く有様であり、これはやはり不眠症による記憶障害なのではと強引に自身を正当化してやり過ごすわけだ。

 夜中に目を覚まし満足な睡眠を取れない状態がいつしかそもそも入眠できない状態へと移り変わりにっちもさっちいかなくなってきたため、心療内科の先生に睡眠のお薬を出してもらう。さすが医薬品、これが科学の力かと驚くほどに、相変わらず眠れたり眠れなかったりしているわけだが、おかげさまで眠れない夜は減少しており薬を服用した明くる日は睡眠が取れたおかげで調子が良い日も多く、「どうしても眠れないときだけ飲んでね」と言われた丸くて小さな錠剤を毎晩口に放り込むことになる。自律神経の乱れを科学の力でひれ伏させる快楽に抗うことはヒトの理性では不可能に近い。

 多くの現代人は睡眠が大好きであり、布団や毛布を愛している。人間の仕事がテクノロジーに代替された社会では、睡眠が褒め称えられ居眠りや寝坊が絶賛される界隈もできるのだろうか、と眠い目をこすりながら夢みたいなことを思う緊張感のない毎日だ、職場への復帰は難しいだろう。

ペンギン

 ペンギンという動物は、なぜあんなにも愛らしい姿をしているのだろうか。

 つぶらな瞳に、他を寄せ付けない黒と眩しいくらいの白が織り成す鮮やかなコントラスト、パタパタ開く小さな翼、ずんぐりむっくりとした図体、この世の愛らしさを全てつぎ込んだかのような、愛らしさに愛されしその存在は、見るもの全てを魅了する。やる気なさげに身体の重心をゆらゆらさせながら、短い足でよちよち歩くその姿に、心を打たれない瞬間はない。

 ペンギンは鳥類でありながら空を飛ぶことはできない。しかし、彼らは空を飛ぶかのごとく水の中を泳ぐことができる。エサである魚の捕らえやすさを求め、空を捨て、生きるフィールドを海へと移行したペンギンだが、その代償として、シャチやアザラシ、アシカなどの海洋動物に命を奪われる危険に見舞われることにもなる。

 結局どんな環境で生きようとも、プラスの面もマイナスの面も両方そびえ立っており、自分にとって譲れないなにかしらを一つ二つ尊重して、残るは思うとおりにしたいなどと考えずひたすらに我慢していかねばならないのだろうなと、職にストレスを抱え、職を休み、あわよくば職を転じようとしている自分とペンギンの住環境を重ね合わせる。そんなことはごもっとも、笑止千万、至極当然のことではあるのだが、大人になることとはすなわち我慢することであるというトートロジーがどうにも腑に落ちず、我慢なんてしたくないから我慢しないという自己主張を押し通す気になることしかできない。わがままを言い続けることがこどもであるというのなら、こどもの方がよっぽど尊いと感じてしまう。大人になりきれないうちは徹底的にこどもであろうと思うし、僕が子供で居続けられるよう、周りの人々には我慢と割り切りの身についた立派な大人になって一生懸命お勤めをしてほしい、そんなバカを願うばかりだ。というか、早くAIが人間の仕事を全部奪ってしまえばいい、僕らは人間から解放され、一度ヒトへと戻るべきなんだ。

 ああ、なんてたのしい現実逃避、虚しいだけの主義、挙句に乱れる精神。大人になれない僕らの、強がりを一つ聞いてくれ、そう強く叫んだところで、聞いてくれる人がどこにいるだろう。23歳、目の前がだんだん暗くなっている気がする。

 

 ペンギンといえば、森見登美彦原作の映画『ペンギン・ハイウェイ』がなにやら炎上中のようだ。発火元は、主人公のアオヤマくんがおっぱいおっぱい言いすぎるもんだから、こいつぁ性的搾取だ てやんでぃ、ということのよう。作中でのアオヤマくんのおっぱいに対する熱意は、同じヒトでありながら自分にないものに対する内発的な興味関心というか、もっと単純に自己とは異なる他者への関心でもいいのだけど、“自分と他人とはみんな当然違うんだし、先入観を捨てて違いがあることそれ自体を認め合うところから始めようぜ”的なダイバーシティインクルーシブのノリにむしろ近いようにも思う。おっぱいを性的たらしめているのは、おっぱいは限りなく性的であるとしてきたこれまでの歴史であり、歴史を築いてきた大人たちであるよなあとか、フェミニズムのサングラスによってなんでもないものが性的なるものとして成立することがあり、逆もまた然りであって、自分もなんらかのサングラスをかけているんだろうなあとか、なにかと思うことはあるのだが、ろくに吟味もせず適当なことを書いて飛び火を食らうのも嫌なので、この辺で留めておきます。ただ少なくとも、僕が観た限りでは、作中のアオヤマくんはおっぱいを性的消費しようなど考えていなかったし、性的消費するやつがいるとすればそれは紛れもなく観客の側だ。

 保険のためもう一度書きますが、うろ覚えの記憶で、ろくに吟味もせず適当なことを書いています、言葉の表現もろくに熟考してません、よろしくお願いします、マジで。

 

 この情報社会、ひとりひとりが情報発信可能なメディアとなった現代ではあるが、情報を得たのちに思考することが難しいのも去ることながら、思考を言語化することに尋常なまでの難しさを感じるこの頃だ。

睡眠

 眠れない夜というのはいつ以来だろうか。

 思い返せば、少年時代、戦隊ヒーローもののブルーに憧れ、常に冷静でクールさを発揮することがカッコよさであると信じて疑わず、学校行事に対しても「ふっ、子どもたちは無邪気だな…」と冷めた様子でカッコつけていた僕であったが、実は遠足前日の夜はワクワクしすぎて寝付けないことも多かった気がする。遠足や運動会の日というのは、神様の粋な計らいによって、1週間ほど前には週間天気予報にて雨マークをチラつかせ、ちびっこ各位をハラハラさせるものであり、前日は案の定雨が降り、我々はてるてる坊主をカーテンレールにぶら下げる行為にせっせと励んだものだ。そして、夜、いつもより早い登校時間に備え、いつもより早く布団の中へ潜り込んではみるが、どうにも目が冴える。適当に考え事でもしていれば眠れるだろうかと、翌日のシミュレーションをしてみるが、この自分を主人公とした学校行事物語がなんだか盛り上がってしまい、なにがどう展開したのか、いつの間にやら怪獣と闘う始末ときた。怪獣を倒すのに意外と苦戦をしていると、夕方には止んでいた雨がまた降り始めたようだ。サーサーと細い雨が窓を叩く音がする、ああ、これは明日は中止かなと憂いながら雨音に耳を傾けていると、気づいた頃にはコクリとおやすみモード、大方こんな塩梅である。

 そんなどうでもいいような昔懐かしのノスタルジックエピソードならまだいいが、近頃の僕を悩ませている睡眠不良はもう少し深刻だ。ベッドへ入れば入眠こそできるが、2時間もすれば目を覚ます、まだまだ起きるには早すぎると目をつむるが、2時間もすればまた目をさます、そんなことを数度繰り返せばすっかり外は明るく、そろそろ身体を起こしたいところではあるが、睡眠が満足いかないものだから眠気で頭が重く、身体なんて起こせたものじゃない。あと1時間だけと思いながらタオルケットにくるまり、完全に目を覚ます頃には昼時だ。浅い睡眠しかできていないものだから、日中も常に眠気がつきまとい、どこかふわふわする、外に出る気も本を読む気もおこらない、浮遊感の中ぼーっとしていると陽は傾き、あれよあれよと就寝時刻。しかし、その頃になってようやく頭と身体が機能し出すのだから仕様がない。せっかく休みをもらっておいて、かえって状態が悪くなってはないかしらん、日頃お目にかかれない一ヶ月ちょっとの休暇期間、自由という名の不安に襲われ、自律神経が余計に不安定になったのかしらん、と頭の中をぐるぐる巡る。巡り巡る負の連鎖、一ヶ月先はどうなっていることやら。

 

 自身の睡眠の不調に気づいたのはここ一二週間の話だが、もっと以前から睡眠障害は発生していたような気もする。気がする、というのにも理由があって、今年に入ってからの僕は「睡眠、己の人生という時間は消費しているのに身動き取れないしめちゃくちゃもったいないじゃん」という焦燥感に駆られ、睡眠時間を4時間程に抑えて生活していた。精神不良が著しくなるに伴い、ショートスリープ生活ができなくなるのだが、ショートスリープ生活をしていたが故に、睡眠時間が“普通”に戻る変化と、自律神経の衰弱による睡眠の変化が重なり、睡眠不良が体調に明らかな悪影響を与えるまで「精神状態は良くないが、睡眠は問題ない」と思い込んでしまっていたのである。

 ここで邪魔をしたのが“普通”というものさし。普通、標準、一般など、いわゆる“常識的”や“当たり前”とされるものさしというのは、当然ながらありとあらゆるところで用いられ、皆が共通とする価値観として大衆に安心を与えるが、その“当たり前”な評価軸が悪に転じることが多々あるどころか、往往にしてありますよね、というような話を今日は書きたかったのだが、枕をだらだらと綴りすぎた。本題は次回に持ち越すとして、本日はもう就寝の時刻である。今夜はよく眠れるだろうか。

映画館

 文化的に満たされた生活は、精神的にも満たされた生活なのではないか。つまり、精神的に疲弊した僕は、きっと文化的欲求や知的好奇心を満たしていくことで豊かな心身を取り戻せるのではないか。そう確信した我々は、ジャングルの奥地へは向かわず、行き先を映画館へと変更した。

 

 今日は映画館へ行った。映画館で映画を観るのは久々な気がしたが、ログを辿ったところ7月1日に映画館へ行っているため、どうやらそこまで久々というほどでもないらしい。思えば、精神的な健康を保てていた頃はもっと頻繁に映画館へ行ったり、美術館へ行ったり、音楽や演劇のライブを観たり、ざっくばらんな己の興味関心に対し、もっと貪欲に行動していたような気もする。よくあるストレスチェックでは「興味のあったものに関心がなくなった」とか「以前は楽しめていたことが楽しめなくなった」とか、そんな項目が頻出する。精神的疲弊は、楽しかったことすらも奪っていく。楽しいことを楽しいと思うためにも心の余裕は必要で、楽しいと思えていたことが楽しいと思えなくなることは、やっぱりつらい。

 これ、百万歩譲って趣味ならいいとして、例えば、好きな人を突如鬱陶しく思うなんてことなどもあるのだろうか、と考えるとけっこうつらくなる。僕はいまのところ好きな人たち、まあ主にSNSの愉快なフォロワー各位になるんだけど、弱音をインターネットの海へポストする度に励ましの声をもらったり実際遊びに誘ってもらえたりしていて、友人もそう多くなく、東京にいる知り合いもかなり限られていて、職場も当然信頼できないという状況にいる中、本当に大変な支えになっている。最後助けてくれるのはやはり人なのかな、と思うし、おかげで恋人とか親友とか、互いが互いのことをかけがえのない存在であると信じ合うような関係性を、ちょっとだけ、ちょっとだけ羨ましくも思う。例えば、そんなかけがえのない相手に対してだ、つらいときにそばで寄り添ってくれる人のことを鬱陶しく思うようになってしまったら、こんな居た堪れない状況があるのだろうか、そんな気がする。世の人々が頻繁にくっついたり離れたりしている様子をみる限り、そんな思い悩むような状況には陥らないのだとも思うけど、想いが一方的に空回りしてしまう状況というのはやはりつらいし、怖い。僕はたぶん、想いの空回りを極度に恐れるがあまり、人付き合いから逃げ、人との距離感を必要以上に保つようになってしまったのだと思う。

 

 話が逸れた。なんの話だ。映画館の話だ。

 

 僕は映画館で映画を観るとき、作品を楽しむことも去ることながら、映画館へ行くことそのものに対するワクワク感がいまだにある。ロビーに広がるキャラメル味のポップコーンの独特の匂い、やけに静まった薄暗い劇場内、でかでかとしたスクリーンと音、テンプレ化した劇場予告、映画館というひとつのエンターテイメントがそこにはある。映像作品や音楽、絵や本等、作品という情報それ自体の金銭的価値が下がる中、映画館で味わえる体験は唯一無二的なところがまだまだあるし、ネットフリックス等のサブスク系サービスで気軽に映画が観れるようになったからこそ、映画館の価値というものが却って目新しくなっていくのではないか、そんな予感すら覚える。というか、そうあってほしいのだ。

 僕は映画が好きだし、映画館も好きだ。でも、映画館でのポップコーンは正直かなりの騒音だと思います。

メイク

 

 今日の夕方頃にポストした上のツイートは、かなり本気でやる気に満ちているのでぜひぜひ気軽にお仕事を依頼してもらいたいが、どこの馬の骨かもわからぬキッコロアイコンにあれこれ手伝ってくれだなんて気軽に言えるものでもないだろう。投げかけておけば誰かしら声かけてくれるだろうだなんて虫のいいことはこれっぽっちも思ってはいないが、もし活躍の場を与えてくれたら一生懸命頑張りますよ、無償で。どうぞどうぞよろしくお願いします。(遊びの誘い等もお待ちしております。)

 

 ルッキズムを肯定するわけではないが、なんだかんだで見た目というのは他者に与える印象に莫大な力を持つものである。ぼくは長いことツイッターのアイコンを愛・地球博公式キャラクターであるキッコロに委ねているが、おかげでフォロワーとオフで会った際には「愛知県出身じゃないんですか?」や「もっと背低いかと思ってました」などと言われたことがある、秋田県出身の身長178cmである。SNSのアイコンですら人の性質を印象づけてしまうのである。

 アメリカの屈強なプロレスラーやニュージーランドラグビー代表選手をアイコンにしていたら、せめてオンライン上だけでも筋肉隆々でいられただろうか、などと後悔の念を抱くが、出会ってしまった際の印象の落差が事故では済まなくなるため良しとしよう、体重49kgである。

 しかしながら、SNSでさえ外見で印象を左右することが可能であるのだから、オフライン上では尚のこと、というのは想像に難い。髪の毛はいつもボサボサで、衣服も手に取ったものを適当に着る、そんな自身の外見に対する解像度が著しく低い日々の行いを振り返りながら、もっと自己プロデュースというものに努めた方が生活は豊かになるのかもしれないと物思いに耽る。

 

 外見に対する意識の低い僕であるが、実は化粧に大変な興味がある。はっきり言っておんなのこになりたい、概念としての“おんなのこ”に。

 思い立ったが吉日、休職という人生の夏休みを手に入れたのもいいタイミング、ここはひとつお化粧にトライしてみようとYouTubeメイク動画をいくつか見てみたが、化粧をしたいという欲望関係なしに、多様なアイテムを駆使し顔をデザインしていく様子が単純におもしろかった。なんで男性の多くは化粧をしないのだろう、そんなことを自然と思ってしまうくらい化粧という行為が魅力的に思えた。

 化粧とは生き方をデザインする術の一つなのかもしれない。近日中に道具を揃えようと思う。

おはようからおやすみまで

 こんなことを冒頭に堂々と書いてしまうと人間性が疑われてしまうが、人間性という曖昧模糊としたパラメータの高低をいちいち気にしても仕方ないので堂々と書き切ってしまおう。

 僕はあいさつが得意でない。

 

 会話という行為が持つ機能は「情報や概念の伝達」「関心があることの意思表示」と大きく二分できる。前者は要するに事務連絡、互いが持つ情報の交換、発する言葉の内容が大きな意味を持つが、後者はそうではない。例えば、「暑い日が続きますね」とか「今日はどちらへ行かれるんですか」とか、いわゆる雑談、無駄話、エレベーターを待つちょっとした隙間時間に一言二言交わされる世間話、そんな類。内容自体にさしたる意味はなく、人と人とが言葉を交わすこと自体に意味がある。そして、日常で行われる会話の多くは、コミュニケーションのためのコミュニケーション、つまり後者、他者に施す毛づくろい的機能が多くを占める。

 

 そんな知識をインプットするもっと以前、あいさつの意味を考えたことがある。「おはようございます」はオンラインゲームにおける〇〇さんがログインしました、「さようなら」は〇〇さんがログアウトしました、さしずめそんな意味合いだろうか、などと思っていた。コミュニティへ出席したことの表明、適応障害休職戦士ここに見参、高らかなる自己主張だ。

 

 おはよう、行ってきます、ただいま、失礼します、さようなら。あいさつ、要するに己の存在がその場に加入することあるいは退散すること、及びその場に対し興味関心を示すこと。純然たる情報としての価値を持たないが、コミュニティ内における自己の存在を既定する意味合いの持つそれらの言葉を自発的に発することにどうにも抵抗がある。

 自分に、今日も本コミュニティにやってまいりましたと主張するほどの価値があるのだろうか。もし自分が疎ましく思われていたら、毎日繰り返されるその自己主張は、かなりウザいものなのではないか。もし自分がコミュニティ内で価値を発揮できていなければ、情報として中身のない「おはようございます」という言葉は、虚しく空気を震わせ、煩わしさを伴った波動として相手の鼓膜に届くだけなのではないか。そんな迷いが、あいさつを試みようとする僕の喉を硬直させる。

 また、いまこの目の前にいる相手に対し、自分は心から関心を抱けているのだろうか、そんな思いが湧きあがってしまう。たまたま同じコミュニティに所属しただけの人々を、たまたま同じ部署に配属されただけの人間を、すべて同列に愛することは難しい。人と人とは分かり合えないことの方が多い、相性なんて運である。自分は、いまこの目の前にいる相手に毛づくろいを施すほどの関心を、果たして本当に抱いているのだろうか。僕が週5日通っていたその環境において、多くの場合、それは否であった。関心を抱けない相手に関心があると偽りの意思表示をすることは、相当の我慢が強いられる。

 

 僕はあいさつが得意でない。すべての人を平等に関心の対象に置くという、至極まっとうなことが上手くできない。人間性という曖昧模糊としたパラメータは、決して高くはないのだろう。

 

 昨晩のことだ。他人と連絡を取る機会の少ない僕であるが、めずらしく人と電話で話をした夜だった。その電話においては「こんばんは」で始まり、「おやすみなさい」で話を終えた。「おやすみなさい」で締めくくる一日は、なにかとても良いものだと思った。

Prologue

 全身に圧力を感じる。

 

 深海に迷い込んだかのようだ。耳は圧迫され、頭には一本の直線を引くように痛みが突き抜ける。息が苦しい。肺は海水を取り込み、喉には交通規制がかかる。無意識にそこを行き交っていたはずの空気が滞る。

 

 明日が遠い。手を伸ばせば届く距離にありながら、手を伸ばすことができない。ようやっと手を伸ばし、両手でそっと包み込んでも、指の間をするりと抜け、また少し先へと逃げてしまう。明日を待ち、明日が来れば、また明日を待つ日々。明日。明日が遠い。

 それでいて、刻一刻と過ぎ去っていくいまこの瞬間は、残酷なまでに止め処ない。鋭く尖った刃を持つその逆風は、身動きの取れない僕の身体を容赦なく切り裂きながら、目で追うことが許されない速さで駆けていく。僕が動かなかったこの一秒に、動き続けている人々がいる。動けなかっただけだと、言い訳をするこの一秒に、動き続けている人々がいる。

 

 不安。混乱。空虚。焦燥。人は誰だってそんな圧力を感じている、はず。

 

 無意識。我々は、正常に機能しているものに意識を向けることはあまりない。お腹が痛いからお腹の調子が気になる。猛暑の日には空調を入れる。電車が止まれば時計に目をやる。異常とは、すなわち行動の起因である。

 昆虫は、痛みを活かして危険を回避する必要がないほど寿命が短いことから、痛覚を持たないという。痛みという異常が生きるための機能であるように、異常を感じなくなった人生など人生ではない、と僕は思う。

 

 人は安定を求める。僕の就く為事は、「安定」の代名詞として、皮肉交じりに度々用いられる。安定した生活、波風の立たない生活、そんな日々に馴染みきってしまった人々は、徹底的に変化を嫌う。しかし、変化を拒み続ける人々を尻目に、人が築き上げた時代や社会や文化は誰にも予測がつかないほど自由に絶えず動き回る。セブンイレブンで和同開珎は使えない。

 

 安定と不安定の狭間で、その軋轢に耐えかねた僕は、心身の不調に陥る。不安定を肯定していた僕の手元に残ったあてどない不安は、あまりうれしいものではなかった。

 

 人間。社会。生活。幸福。あてどない不安を抱え呆然と立ち尽くす僕は、彼らを意識下に置く。

 

 こんな状態に陥りましたので、一ヶ月ほど休職と相成りました。リハビリがてら日記のようなブログをぽちぽち書ければなと思います。