落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

「あ」

 キーボードを叩く、ディスプレイに文字が表れる。Aのキーを押す、「あ」の文字が表れる。続いてAのキーをそっと押してみる、変わらず「あ」の文字が表れる。今度は力を入れてAを押してみる、やはり「あ」の文字が表れる。そこに表出される「あ」はどれも均一なピクセルの集合であり、表示される位置が異なるだけで同一の形をしている。任意の倍率や書体に設定することは可能だが、それはソフトウェア上で設定された文字であり、デバイスに文字入力の意思を表明した瞬間に意思表明した者のその指先に到達するまでに働いたエネルギーはリセットされる。なるほど、ハードサイエンスフィクションで描かれるシンプリシティな世界はデバイスを終着点としたエネルギーの収束に由来するのかと気付き、このエネルギーの誤差や余白のなさがテクノフォビアを招くのだろうかと考える。

 毛筆であればどうだろうか。「あ」という文字を書こうとする。目の前にはダイソーで購入した墨汁が注がれたセリアで購入した硯があり、キャンドゥで購入した半紙がハンズで購入した文鎮によっておかれ、右手にはセブンイレブンで購入した筆を持っている。体内のエネルギーを使って右手を動かし、筆に墨をつけ、硯の縁で筆を整える。半紙の上部へ筆を運び、そっと降ろし、「あ」の一画目、すなわち横に一本の線を引く。その調子で筆を何度か動かし渾身の「あ」を完成させる。そこに生じた「あ」の文字は、筆や紙や墨の質感だったり筆に加える圧力だったり筆をついたときの角度だったり、あるいはその日の気候や書いた者の体調が使用する道具や筆に加える力に影響があるかもしれない。そんなことを言い出すと、その日の気候は前日の気候からの延長にあるわけであり、前日の気候は前々日の延長にあり、はたまた前々日の気候は前々々日の延長にある。それだけならまだしも都市や森林の構造や生物の暮らしだって天候になんらかの影響を及ぼすだろう。天候や都市構造やあらゆる生物の行動は、一人の人間のある一時点での体調にだって影響があるはずだ。まさに無為自然、物質世界で物質同士が影響を与え合った一つの形として存在するこの「あ」は唯一無二の存在と捉えることも可能であり、他者による複製は不可能である。なるほど、毛筆で書かれた「あ」という文字には書く者や状況に応じた違いが確かにあるだろう。

 この違いこそが、ひとの温かみ、とかなんとか曖昧に称されるものの正体なのであろうか。仮にそうだとして、まあ言わんとすることはわかる。

 でも、その「あ」を書く際に用いたダイソーなりセブンイレブンなりで作られた道具各種は設定された機械によって量産された均質な工業製品であり、それを受け入れるのは良しとしてより身体に接近したデジタルは断じて否とするのはいまいち理屈が立たないわよね、と思ってしまうのである。

 人間とテクノロジーの付き合い方について考える。

 私はインターネットになりたいです。