落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

逆立ち

 逆立ちをしている。

 もちろんいま逆立ちをしながら文字を打っているという意味ではない。逆立ちとはすなわち通常の起立状態とは上下反対に直立する行為であり、逆立ち中において手は床ないしは地面とぴったり触れ合っている。その状況で文字を書くことなぞ到底できない
 しかし人間の進歩は計り知れず、有史以来遺伝情報に依らずとも未来方向への情報伝達を容易に行い続けることで加速度的にヒトという生物の可能性が広がっているのはわたしがいま操作しているMacBookやあなたがいま手にしているだろうスマートフォン等々からも明らかである。つまり現状において常識的とされる認識から不可能であると判断されることも未来永劫普遍的に不可能と断言するのはいささか短絡的であり、逆立ちしながら文字を入力することも不可能とは言い切れず、というか、逆立ちしながら音声入力をすれば済む話であり、せいぜい人差し指の運動さえある程度の自由が利く状況であれば手のひらを地面と触れ合わせた状態でも文字を書くことは到底できないということはない。強いていうならば個々の筋力の問題による。
 
 逆立ちをしている。
 もちろんいま現在逆立ちをしているのではない。最近、逆立ちを日課にしている。
 逆立ちを日課とした理由はただ一つ。いかに文化的な生活を営なもうとも人間もヒトという生物の一種であり、日々あらゆる生存活動を行わなければならない。日々の生活を送ることは生存していることと同義である、至極当然だ。生命体である以上我々に無のなかの無を選択する余地はなく、いつ何時であろうともなんらかの活動に励まなければならない。活動を行うためには身体の操縦が求められ、身体なる物質を機能させるためには身体が求められる。これまた当然だ、わたしはMacBookがなければMacBookを操作することができず、本があるから本を読むことができ、目の前に箸が置かれただけでは炊きたてのごはんを食べることはできない。己の身体を動かすためには己の身体を動かせる状態へ導かねばならない。要するに今のわたしには充分と胸を張れるだけの体力がなく、身長177センチのヒトの重量が50キロ前後で満足なはずがない。そういえばここのところは日常動作で体を動かすだけで疲労感に苛まれいちいち睡魔が戦闘を挑んでくる。そして負ける。仮にもピチピチの二十代前半。著しい身体的衰えを感じるには流石に時期尚早。このままじゃあいかん。とはいえ、運動する体力もなければ筋トレなんて以ての外。そこで辿りついたのが逆立ちである。

 逆立ち。言ってしまえば直立しているだけであるため過度な負荷もかからず、腕の筋力が根を上げるより頭に血がのぼる方の限界が先にくるから下手に無理をする危険性もない。かと思えば、普段使用しない筋肉を使用するため、日頃積極的身体運動(エゲレス人が言うところのスポーツである)を全くしない身にとっては程よい骨格筋の出力を行える。自宅で行える上、壁さえあれば即座に実行可能であり、継続させやすいメリットもある。心なしか姿勢が良くなっている気もする。

 そんなわけで逆立ちをしている。近況である。
逆立ちをすると視界が180度回転する。いつもの風景も、風景といっても自宅内ではあるのだが、逆さに眺めることで見過ごしていた箇所に気がついたり、直立状態では到底得られないインスピレーションが容易が生まれたりする。なんてことがあるわけもなく、逆立ちをしている最中に正面を向く機会に恵まれることは少ないし、基本的には上すなわち床を直視することになる。
 しかし、自己とはつまり他者でない存在であり、他者とは環境のことだ。認識する他者Aでない存在のわたしも、身をおく環境をAからBへ転じることで認識する他者Bでない存在のわたしになることだって可能であるはずだろう。
 それならば他者Aでないわたしが逆立ちをすることで、他者∀でないわたしになれたっていいはずだ。
 行き詰まったときは試しに逆立ちをしながら音声入力で作文をしてみるのもおもしろいかも知れない。
 その日が来るのに備えて、わたしは今日も逆立ちに励むのである。