落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

会話のリハビリ

 9月末に休職期間延長の書類手続きに際して職場へ赴き課長と少し話をして以来、クラブへ遊びに行ってどんどこ音楽が鳴り響く中で会話をする機会こそあったけれど、ゆっくり腰を据えて長尺の会話をする機会が遠退いているなと気づき、振り返ってみると課長との云々から3週間ほど経過しており、ああずいぶんと会話とはご無沙汰しているわけですなあとSNSでフォロワーと文字のやり取りをする片手間で思う。そして課長との云々から3週間ほど経過しているのであれば、それは休職期間の延長分を3週間ほど消化したことと同義であり、転職に向けて重い腰を上げる気持ちも小程度湧き出し、とりあえず証明写真を撮った。5年ぶりのスピード写真は思ったより難しいし、箱の中は思ったより狭いし、出来上がった写真は私のメガネからピサの斜塔ほどの傾きが生じている事実を明らかにする。

 メガネのズレに気づく前日、3週間ぶりにゆっくり腰を据えて人と会話する機会を得たが、どんな世界においても3週間のブランクが習慣に対する非常に大きい難であることは想像に容易く、[3週間 ブランク]で試しに検索をかけてみたところブランク後のランニングのしんどさが綴られたブログがわんさか出てくる。会話もランニングと同様で、3週間も実施の機会に恵まれなければ声は出ないわリアクションは薄いわでとにかくエネルギーを会話に充てる方法がわからなく、相手はAIと会話するアプリとコミュニケーションした方がよっぽどたのしいのではないかしらんと大変申し訳ない気持ちになる。相手の弁に対し気の利いた返答をするなんて以ての外である。

 転職活動にあたり面接やらなんやらで話せなくなるのはさすがにまずいと思い、小中高と同じ学校へ通い気心の知れた地元の友人へ電話をかけてみると、難しさこそあれど好き勝手におしゃべりする段階には至り、今後の会話リハビリに協力してもらうべくそれとなく「また近くにでも電話しようぜ」と伝え通話を切った。

 3週間も間が空いたのにも関わらず、機会が与えられる時にはゲリラ的にどかっと一気に降りかかってくるため、3週間ぶりの機会を得たのも束の間、明日明後日とゆっくり腰を据えて人と会話をする予定があるし、今度どっか行きましょうと口約束をした件も数件あるためそれらも都合を合わせて近々実行に移させてもらいたいし、なるべく人と話す機会は定期的に設けたいなと考えている所存ではある。

 その一方で、人と話すということは相手の時間を拘束することであり、自分は時間を持て余す者だから全く構わないが多忙を極める現代人諸氏に対し「私めとお話しする機会を頂戴できないでしょうか」と伺いを立てるのはどうにも申し訳なさが勝ってしまい、こちらから誘いをしたり都合を問うたりに踏み切れないことも大変に多い。相手が忙しかったら断ればいいだけの話ではあるので好き勝手に伺いを立てればいいのだけど、Noと言えない日本人というステレオタイプが邪魔をし「忙しいところを無理に都合をつけていただいてしまった場合に、一凡夫である私にそのお詫びをすることができるだろうか、答えは否であろう」と勝手に問いを立てては勝手に回答を導き出し、自分に対しては好き勝手できるけど他人に対し好き勝手は難しいですよね、と人目を気にしながら生涯を全うする決心をするのである。

 そんな自問自答の末にたどり着いたのが、都内各地で行われている対談イベントへ足を運ぶという遊びである。対価を支払うことで心を軽くしながら有識者のお話を拝聴できる素晴らしさに感動しつつ、この遊びは勉強にはなるが会話のリハビリには決してならないという事実に気付きながらも目を向けないようにして対談イベントの観覧予約を入れまくる日々である。