落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

睡眠

 眠れない夜というのはいつ以来だろうか。

 思い返せば、少年時代、戦隊ヒーローもののブルーに憧れ、常に冷静でクールさを発揮することがカッコよさであると信じて疑わず、学校行事に対しても「ふっ、子どもたちは無邪気だな…」と冷めた様子でカッコつけていた僕であったが、実は遠足前日の夜はワクワクしすぎて寝付けないことも多かった気がする。遠足や運動会の日というのは、神様の粋な計らいによって、1週間ほど前には週間天気予報にて雨マークをチラつかせ、ちびっこ各位をハラハラさせるものであり、前日は案の定雨が降り、我々はてるてる坊主をカーテンレールにぶら下げる行為にせっせと励んだものだ。そして、夜、いつもより早い登校時間に備え、いつもより早く布団の中へ潜り込んではみるが、どうにも目が冴える。適当に考え事でもしていれば眠れるだろうかと、翌日のシミュレーションをしてみるが、この自分を主人公とした学校行事物語がなんだか盛り上がってしまい、なにがどう展開したのか、いつの間にやら怪獣と闘う始末ときた。怪獣を倒すのに意外と苦戦をしていると、夕方には止んでいた雨がまた降り始めたようだ。サーサーと細い雨が窓を叩く音がする、ああ、これは明日は中止かなと憂いながら雨音に耳を傾けていると、気づいた頃にはコクリとおやすみモード、大方こんな塩梅である。

 そんなどうでもいいような昔懐かしのノスタルジックエピソードならまだいいが、近頃の僕を悩ませている睡眠不良はもう少し深刻だ。ベッドへ入れば入眠こそできるが、2時間もすれば目を覚ます、まだまだ起きるには早すぎると目をつむるが、2時間もすればまた目をさます、そんなことを数度繰り返せばすっかり外は明るく、そろそろ身体を起こしたいところではあるが、睡眠が満足いかないものだから眠気で頭が重く、身体なんて起こせたものじゃない。あと1時間だけと思いながらタオルケットにくるまり、完全に目を覚ます頃には昼時だ。浅い睡眠しかできていないものだから、日中も常に眠気がつきまとい、どこかふわふわする、外に出る気も本を読む気もおこらない、浮遊感の中ぼーっとしていると陽は傾き、あれよあれよと就寝時刻。しかし、その頃になってようやく頭と身体が機能し出すのだから仕様がない。せっかく休みをもらっておいて、かえって状態が悪くなってはないかしらん、日頃お目にかかれない一ヶ月ちょっとの休暇期間、自由という名の不安に襲われ、自律神経が余計に不安定になったのかしらん、と頭の中をぐるぐる巡る。巡り巡る負の連鎖、一ヶ月先はどうなっていることやら。

 

 自身の睡眠の不調に気づいたのはここ一二週間の話だが、もっと以前から睡眠障害は発生していたような気もする。気がする、というのにも理由があって、今年に入ってからの僕は「睡眠、己の人生という時間は消費しているのに身動き取れないしめちゃくちゃもったいないじゃん」という焦燥感に駆られ、睡眠時間を4時間程に抑えて生活していた。精神不良が著しくなるに伴い、ショートスリープ生活ができなくなるのだが、ショートスリープ生活をしていたが故に、睡眠時間が“普通”に戻る変化と、自律神経の衰弱による睡眠の変化が重なり、睡眠不良が体調に明らかな悪影響を与えるまで「精神状態は良くないが、睡眠は問題ない」と思い込んでしまっていたのである。

 ここで邪魔をしたのが“普通”というものさし。普通、標準、一般など、いわゆる“常識的”や“当たり前”とされるものさしというのは、当然ながらありとあらゆるところで用いられ、皆が共通とする価値観として大衆に安心を与えるが、その“当たり前”な評価軸が悪に転じることが多々あるどころか、往往にしてありますよね、というような話を今日は書きたかったのだが、枕をだらだらと綴りすぎた。本題は次回に持ち越すとして、本日はもう就寝の時刻である。今夜はよく眠れるだろうか。