落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

やさしくなりたい

 気が狂いそう。やさしい歌が好きで、あぁあなたにも聞かせたい。

 

 しかしだ、自分が好きなやさしい歌をあなたに聞かせたいという想いは、独りよがりで、自己中心的で、エゴイスティックで、あなたのことを考えているようで本質的にはあなたのことなんてこれっぽっちも考えていない、何一つやさしくないものなのではないか。

 

 私が聞かせてあげることであなたはやさしい歌を知ることができるだろうし、私が聞かせてあげたやさしい歌であなたは何か救われるようなことがあるかもしれない。でも、私は、あなたにやさしい歌を聴いてほしいと純度100%の想いを抱いているわけではなく、その奥に、やさしい歌を知っている私、やさしい歌を聴かせてあげた私を、あなたに押し売り、好感度という名の見返りを求めてしまっているような気がする。

 

 やさしい歌を片手に、あなたに近づこうだなんて気が狂っているし、やさしい歌の優しさは、歌の優しさでしかなく、決して私の優しさではない。

 

 人にやさしくしたいが、その優しさの奥に相手からの見返りを求めるような自分がいるような気がして、それって本当の優しさなのだろうかと考えてしまい、優しいの意味がわからなくなり、結局何もしないのが一番優しいのではないかと、何も行動せずに終わることがよくある。

 

 例えば、これは優しさとは少し違うが、「あなたが好きです」と相手に言葉で直接伝えることは、多くの場合「私はあなたのことが好きだからあなたも私のことを好いてほしいし、できればずっと一緒にいてほしい」という自分本位な意図があるだろう。

 ただあなたのことが好きだという純粋な想いにエゴが入り混じり、その想いの純度が、滝壺に吸い込まれるかのように急降下してしまう、そんな気がしてくる。思いやりを持って動いたはずの自らの行動にそのエゴを感じ取ってしまったとき、足場にしていた優しさは崩れ落ち、優しさの奈落へと放り込まれる。

 好きなひとを大切に想う気持ちは優しさだが、その気持ちを言動によって表面的に示す行為に優しさの影を見てしまい、優しい行動はやさしくないだろうと思い違えてしまう。

 結果、冷たかったり、攻撃的であったりすることの方が、却って優しいのではないかと、歪んだ思考を持つようになってしまう。

 あるいは、その先に自分への還元を求めた相手への思いやりを抱いてしまっている自分に嫌気がさし、真逆のことをすることでバランスを保とうと明らかにやさしくない言動をとってしまうことがある。

 

 自己というのは、他者の対比として存在する。相手がいるから自分がいるし、他者の存在を強く感じれば感じるほど、自己も強く表れてくる。

 だから、相手に好意を抱けば抱くほど、相手への思いが強ければ強いほど、自我が出てきてしまうのも仕方がないし、逆に言うと、自我を強く感じてしまうほど、相手のことを想い、相手にやさしくしたいと考えているのかもしれない。優しさというやつは、そういうものなのかもしれない。

 私が人にやさしくできないのは、結局のところ、自分のことを好きでないからなのかもしれない。自分に優しくできない人間は、他人に優しくすることができないが、他人に優しくできないことで余計自己嫌悪に苛まれてしまうから、他人に優しくできないループから一向に抜け出すことができない。

 

 想いは言葉にしなければ伝わらないし、人にはたくさん感謝をした方がいいのだろうが、そのストレートな感情表現はかなり西洋的で、歴史的に”個人”を求め続けてきた西洋人の思想がやはり軸にあると思う。

 福沢諭吉が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した、という逸話があるが、遠回りで解像度が低く曖昧な感情表現というのは東洋的な美しさを感じさせるし、西洋的な感情表現を肯定する一方で、東洋らしい抽象的な優しさの形を見つけられたら楽なのにな、と思う。

 

 好きな人たちには幸せでいてほしいし、好きな人たちと接するときは優しさを持っていたい。でも、好きな人たちが幸せでいるための要素に「私」が入っている必要はないし、そもそも私なんかが人と接すること自体が優しくないことなのでは、時にはそんなことすら考えてしまう。誰にも気づかれないところで人にやさしくしていたい、そんな思いがある。

 人との関係は基本的にインタラクティブなものであるから、自我を隠そうなんて思いがなによりも自己中心的であり、おそらく根本的な考え方が歪んでいるのだと思う。多分、私はこの先もきっと人にやさしくすることができない。

 

 気が狂いそうだ。