生活困窮日記20〜21日目
■19日目までのあらすじ
おいしいコーヒーを飲んだ。
■20日目
朝から雨が降っている。天気予報を見ると傘や雲の記号が並んでおり、梅雨へ突入したことを察する。
約2年前、傘を持つことをやめてみようと思い、玄関に溜まったビニール傘をすべて廃棄し、それから今まで傘を一度も購入することなく過ごしている。
上空から水滴が零れ落ちてくる。落下する水滴を身体で受ける。身体が濡れる。一連の流れに不思議なことはなく、炎に触れると熱く、太陽を直視すると眩しいように、雨が降っているときに外へ出たら身体が濡れる、という事実を私はそのまま受け止めた。
私は火傷をしたくないから炎には触れない。また、目を痛めたくないから太陽を直視しない。しかし、濡れることへの抵抗はさほど感じなかったし、濡れたらタオルで拭けばいい。あるいは、そもそも主に濡れるのは私自身ではなく私の身を包んでいる布の方だったりする。
不定期で大地が揺れ危機感を覚える現象を“地震がくる”と呼ぶように、不定期で外出時に身体が濡れてしまう現象を、私は“雨が降る”と呼んでいる。
バイトへ向かうまでまだ時間があったため、アンビエントミュージックを聴く。
静かに響くか弱い音は、雨音と交差したのち、どこかへ去り、また静かに現れる。雨音というのは心地よいものであるが、アンビエントミュージックはその心地よさを一層引き立てる。アンビエントミュージックは生活を内包し、生活はアンビエントミュージックの中に存在する。
家の近くを車が通り過ぎ、タイヤが濡れた車道を転がる音が大きく聞こえてくる。アンビエントミュージックをわずかに塗りつぶしていく。
昼からバイトへ行く。
移動時間の多くは電車に乗っているとはいえ、自宅から駅、駅から勤務地へ向かうまでの数分で身体は濡れる。
バイト先へ到着し、持参したタオルで身体を拭く。店長が、今日も傘をささなかったんだ、と笑う。たまに雨で濡れるのも悪くないですよ、と返しながら、濡れた髪の毛や衣類にタオルを当てる。濡れたまま接客業に従事するのは良くないな、と思う。
外は雨が降っている。
雨が降ると、多くの人は外出の意欲を失う。
今日のバイトは来客も少なく、店内に流れる音楽が穏やかな時間をつくりだす。奇しくも今日の店内ではアンビエントミュージックが流れている。
客足が伸びないため、コーヒーを淹れる練習をする。指導してくれているスタッフがコーヒーを口に含み、熱いね、と言う。
■21日目
アマゾンプライムで『オズの魔法使』を観る。
この頃の映像作品は演出が教科書のようで基礎を学ぶ勉強になるな、と思う。また、あまり観る機会のなかったミュージカル映画を観て、映像的手法と演劇的手法がハイブリッドされた演出のおもしろさを感じるが、私には映像や演劇の演出技術の知識が特段あるわけでもない。何を偉そうに、と自分に対し横槍を入れる。
『オズの魔法使』では、知恵を求める案山子、心を求めるブリキのロボット、勇気を求めるライオンが登場する。しかし、彼らが本当に求めるものは欠如を補う能力ではなく、能力を誇る自信だ。案山子は既に知能を有しながら知恵を所持していないと言い張って知恵を求め、ブリキは既に優しさを有しながら心を所持していない言い張って心を求め、ライオンは既に勇敢さを有しながら勇気を所持していないと言い張って勇気を求める。
エンディングでオズの魔法使は彼らに贈り物をする。案山子には思想学博士の学位を、ブリキにはハート形の時計を、ライオンには魔女退治を賞したメダルを。彼らは第三者から褒め称えられ、記念品を受け取り、他者及び物的に能力を証明されることで自信を獲得する。そして、この他者から与えられた自信は、主人公ドロシーとの冒険という自らの経験によって裏付けられる。
案山子が、ブリキが、ライオンが求めていたものは自信であり、自信を持つための経験だった。或る能力を有する者は、或る能力を有する事実ではなく、或る能力によって果たされた実績によって能力が認識され、実績によって能力が確認される。
私は、私には得意なことがなく、他人より秀でた能力も特にないと思っている。それは能力のなさ以上に、経験のなさ、実績のなさ、ひいては何事にも怖気つき行動してこなかったこれまでの生き方に起因しているのだと思う。
思いつきでブログへ書き始め、3日程度で飽きると思われたこの日記も21日目までは続いている。これが例えば、今後も日々を記す行為が継続し、日数が3桁に到達したならば私は何を思うだろう。
結局、可視化されなければ私は私を認識することができない。文字で記された日々を、カウントされていく数字を、少しずつ積み重ねることができたなら、私も何らかの自信を得ることができるのだろうか。
夕方、バイトへ向かい、夜の勤務はお腹が空くな、と思う。
■22〜24日目