落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

いまだに職が決まらない話

 相も変わらず求人サイトを眺め、気が向いた企業に応募を出し、時には面接を受けるなどを挟みながら、お祈りのメッセージを受信する日々を重ね、一向に私という個人に必要性を見出してくれる企業様に出会えない状況に肩を落とし、出会えないというか私に価値を見出してくれる組織は存在しないのではないかと不安になりながら、とにかく私という個人が代替可能な存在であり、私の上位互換たる他者が世にはあふれているのであって、私が祈られた企業には彼らが無事採用されているだろうことに思いを馳せ、それはそれで世の中的には幸福な結果になっているのでしょうと妙な納得の仕方で心の平穏を保とうとする。
 読点を臆せず多用した長い一文を書くことに快楽を感じる。読み手のことなど一切考えずにただ己の快楽のみに従い、目の前の文がいつまでも終わらぬようにと願いながら、テキストを打ち込む。その長文癖が染み付いてしまっているのか、志望動機を書こうにもやはり一文が長くなってしまうし、ビジネスライクに整えようと短くわかりやすく修正を試みるのだが、その文章からは自分の身体性が欠如しているようでどうにも私の書いた文章という感覚が得られず、これで自己のPRになどなるわけがなかろうと改めて長文を書き直す。
 こうして社会が求めるであろう姿から遠退く姿勢で就職活動に挑んでいるのだから、当然結果も実らないわけで、もっと世間に適応しろと言われればそのとおりなのだが、ならば世が私に適応してくれたっていいではないか。個人は異質な個人を受け入れられるけれど、社会(あるいは社会の一部となった個人)は例えそれが明らかに非合理的、または非倫理的だとしても異質な個人をいつまでも受け入れないものよね、というのは先日『グリーンブック』という映画を観た際に思ったことで、パブリックな環境であればあるほどに「私自身は別に構わないけど、他の誰かが不満を抱くかもしれない」「私自身は別に構わないけど、規則で決まっているからこの場では許容はできない」と判断基準が特定個人から特定できない何者かである他者に委ねられ、その特定できない他者たる「大衆(public)」が個人に不寛容であるのならば、個人と個人との繋がりで構成される「社会(social)」な環境をいかに増加・拡張させていくかが、個人主義時代では求められるのではないかと思う。個人という幻想を与えられた現代人がその幻想を理性で放棄することはおそらく難しく、ならばその幻想が幻想であることを自覚しながらも、その幻想をどこまで追い求められるか挑んでいかなければならないのだろう。私が公務員というpublicに100%傾いた組織を脱した理由の一つにそうした意識もあった以上、自己を受け入れずに他者をも受け入れないような組織は例えいくら金を積まれようとやはり遠慮したい気持ちが強い。
 生きるために生きようとする気はない、だけどお金がないやら仕事がないやらを原因にヒトが死ぬことはなく、どこまで追い込まれようとそれを苦悩として抱えながら生きなければいけない現実に既にどうにも耐えられなくなり、どうにか耐えていくために落ち着きを取り戻そうと、いま唯一の自分の居場所たる自宅から少し離れてやろうじゃないかと当てもなくJR中央本線に揺られ甲府まで出かけたのはつい先日のことだ。
 八王子から各駅停車で2時間程度、大して離れている土地でもない甲府に何がある訳でもなく、桜の咲いた駅近の公園を夜通し散策し、駅の構内で野宿をし、明け方からまた散歩をして昼過ぎに帰路へ着いた。収入がない状況で交通費だけが飛び立っていき、それと引き換えに手に入れたものと言えば満開の桜と電車内での読書時間、初めての野宿と久々の運動となった長時間の散歩くらいであったが、一日かけて甲府駅近辺を散歩してから身体の調子もよく、運動の重要さと日頃の運動不足を確認できたことはそれなりの価値があったのかもしれない。なにより初めての野宿はいい体験で、規則や伝統に束縛されることを嫌い、自分の思いついたことを好き勝手に試すのが好きな性格ながら、一方で異常に他人目を気にしてかしこまり、失敗を恐れておどおどしてしまう性質をも兼ね備えている私にとって、公衆の場、横になるべきではない場で自己都合に従って寝るという行為は、自身の殻を破るきっかけとしてどこかで活きるのではないかと感じており、例えば再就職先を見つけるに際して何らかの形で活きてきてほしい、というのはただの願望だ。
 肉体的にも精神的にも労働能力がないわけではないため、生活保護などの恩恵を預かることもできない私はやはり働いて金銭を稼ぐしか手段はなく、自ら事業を起こす意思も能力も野望もないためやはりどこかしらの事業主に雇ってもらうしか他ないのである。かといってpublicに加担する大半の企業に労力を貸与する気もさらさらなく、一方で10年後、20年後の世の中をより幸福な構造にすべく既存体制の超克へ挑んでいる企業様を選んでいられるような立場でもない。コンビニエンスストアなどでアルバイトに励むのが私ができる精一杯の世のため人のための行為であるような気もする。
 生活の上で自分の中に生じる腑に落ちなさを紐解きながら、やけに偉そうなことを色々思ってしまう質ではあるが、熱心に勉強に励む教養者では決してなく、むしろ不勉強に不勉強を重ね逃げるようにここまで生きてきてしまった何ら教養のない輩こそが私なのだから、その不勉強さが諸々の腑に落ちなさや世への適応できなさにつながっている可能性も十分に考えられるのであって、やはり人間たる存在が何者であるかとか、人間を機能させるための構造がどんな仕組みであるかなどを少しずつ勉強していかなければならぬよねと思い、明日も図書館へ通うのだ。
 結局、いつまでも再就職が果たせないのも単純に人や会社に認められるだけの能力がないだけなのかもしれない、単純に。