落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

傘の所持を放棄した話など

 ここ1〜2年ほど私の鉄板トークになっているもので「傘の所持を放棄した話」というのがある。
 内容は単純。雨が降っている日、傘を持って外出しても帰りにはどこかへ置きっぱなしだったり、置きっぱなしにしているもんだから雨が降った日に自宅に傘がなくわざわざコンビニで買ったり、晴れていたから傘を持たず出発したら帰りには雨が降っており天気予報を確認しなかった過去の自分にウンザリしたり、ウンザリしながらコンビニに寄って余計に傘を買ったり、帰宅すれば玄関に大量の傘が溜まっていたり……。それに加えて、そもそも傘をさすのが下手だから傘をさしていても足元がやけに濡れていたり、傘を持ち歩くのが煩わしかったり、とまあ傘を所持することで雨に濡れずに済むという利点以上に、傘が存在することで辟易とする出来事ばかりが目立ち、傘があることで却って日々のストレスは増えているのではないかと疑いを抱いたのがきっかけで、だったら傘なんてアイテムはなかったことにしてしまおうと所持している傘をすべて捨て、それ以降は傘を一切購入しないと決めて今は傘なしの生活を送っております、というお話である。
 面白い話かどうかは知らないが、雨が降る日に人と会うと当然のように傘を持っていないのか問われるわけで、そのたびに傘を持つのをやめた話をしているため、必然的に話す回数が増え、気づけばこの話をする機会が多いなあと何やら鉄板トークのような立ち位置に君臨してしまっている。ぼく傘持ってないんですよ、とあたかもウチにテレビないんですよ的なノリでせいぜい500円程度のアイテムを家財の如く扱い出すのはそこそこ滑稽にも思えるし、軽い小話を持っていると便利だなという実感もあるので、傘を持つより傘を持たないというエピソードがある方が生活は豊かになるのかもしれない。
 ちなみに傘を持たないことで小話が増えただけでなく、余計な出費は減ったし、傘の持ち忘れに一喜一憂することもなくなったし、人といるときは割とみんな傘に入れてくれて嬉しいし(一方で手間を取らせて迷惑はかけているのだが、恋人とかの関係性でなくとも物理的近い距離で歩くとすごく楽しい)、何かとメリットが多い。デメリットといえば雨が降った日に濡れるくらいなもので、雨は水なので触れたら濡れるのは当然だし、雨が降るのも自然の摂理だし、雨は天災であって抗いようがなく、こんなとき傘があればなどと思いそうになったときは私の生きる環世界に傘なる存在はないという設定を強く意識し、空から水が落ちてきて身体が濡れて冷えがちなタイミングもあるのが地球で生きていくことであると当然のように過ごすだけである。
 この「あるものをないとする」という生存戦略は他にも汎用できるのではないかと最近考えている。例えば、いま職がなく再就職先も一向に見つからず将来が不安になっている私だが、不安とは苦しみそのものではなく苦しみが訪れるかもしれないという気持ちな訳で、つまり不安の原因は職がないことではなく、定職に就けずフリーターとして生活することになれば将来的に金銭で困りそう、といったところだろう。フリーターだとなぜ金銭で困りそうなのかと問われれば、時給制であるとか、手当や賞与がないだとか、長く勤めても昇給がわずかだとか、そんな類いである。であるならば、それらはそもそも「ない」ものにしたりしまえばいいわけで、手当や賞与などの制度は存在しないと設定すれば賞与があればもっと楽に生活できるのに……と思い煩う必要もなくなる。時給制にしても賞与にしても昇給にしても前職や正規雇用での待遇と相対化するがゆえに心配になるだけなのだから、相対化などしなければいい。あるいは、自分に未来があると思い込んでしまっているから将来に対する不安を募らせてしまうのだから、未来なんてものは「ない」と設定してしまえばいい。余計な悩みに費やすエネルギーがあるなら読書に耽っていた方が幸福度は高くなるだろう、ならば「ない」ことにして心置きなく読書に励もうではないか。おそらく私にはそうした人間が歴史の上で創ってきた概念を無視する生き方のほうが向いているような気がする。
 未来をないことにできるなら、過去もないことにしたっていい。私には秋田県出身で地元の阿呆な高校を出て東京で就職して3年半で辞めたという事実があるが、「秋田県出身で地元の阿呆な高校を出て東京で就職して3年半で辞めたという設定」という設定で過ごせば肩の荷も下りるのではないか。世界五分前仮説を信仰する奇人のようになってしまうが、過去に束縛されてしまいがちな私なら、過去がこういう設定になっているからいまこうなっている、と意味不明な割り切りをした方がおそらくストレスは少ない。
 過去という経験は現在を構成し、体系化された過去は未来へと超越する。それが人間の認識であるが、それは人間の認識でしかない。過去・現在・未来というパラダイムから脱却し、記憶という朧げな体験を朧げであるがままにし、現在に渡って与えられている文化を時には拒み、未来を創造する信念を放棄する。なんかそういう生き方ができないのかな、とかつい考えてしまうせいでいつまで経っても再就職先が見つからないのである。社会全体でそんなことを言い出したら秩序は狂いそうだが、個人の生存戦略としてはそこそこおもしろいんじゃないの、と本気で思う。
 まあのんびりいきましょうね。