落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

近況をただだらだらと書いただけのやつ

〈1〉
 再就職先を見つけるべくマイナビへアクセスし求人検索をする。いくつかの求人を眺め、この企業が行う事業は本当に世に必要なことなのだろうかと、知ったような顔をして偉そうに難癖をつけながら、結局求人を眺めただけで何かを達成した気になり満足気にブラウザを閉じる。責務を果たした後は心置きなくアニメを見て、飽き次第ツイッターを眺める。目に疲労を感じたら、横になって瞼を閉じながら脱力し、意識をどこかへ葬り去る。暇を優雅に過ごす日々を飽くことなく繰り返し、気づけば外はいくらか暖かくなっていて、日と時間帯によっては室内の方が冷え冷えとしているようなのだが、いかんせん滅多に外出をしないから室内外の温度差は定かではない。
 日毎に気候は明らかに冬から春へと移行しているが、私の状況は1月末に書いたブログ時点から何一つ進展しておらず、変化といえばせいぜい御社からいただいたお祈りの数が増加した程度だ。ここまで企業各位から必要とされていない旨の通知をもらうと自信パラメータが凄まじい勢いで底値をぶち破っていくことは皆も知るとおりであり、仕舞いには私が企業に提供する1時間に985円(=東京都最低賃金)もの価値があるのかどうかすらわからなくなってくる。1時間985円に見合った労働をする自信がないのだ。これは例えば友人と遊ぶにしても、私の1時間とあなたの1時間との濃度の差に耐えきれず、天秤の釣り合ってなさに申し訳ない思いでいっぱいになり、不足分を現金で支払うので私と遊んでくださいませんかと頭を下げるべきなのではないだろうかと心配になる。集う理由が一致したから遊ぶのであり、対等な立場であるのだから労働契約とは話がまったく異なるのは承知なのだが、友人にメールを送ることですら怖気付いてしまう(メールを見ていただく、返事を送っていただくためにあなた様の貴重なお時間を割いてしまうのはどうにも恐縮してしまう)状況で求人に応募などできるわけもなく、お酒を飲んだり将来への不安が突如大きくなったりでもしなくては書類審査すらお願いできず、何かの間違いで面接にお呼ばれしてしまった場合にはうろたえる以外の動作を失念してしまう可能性が大だ。いっそ友人に対価を支払うから私と遊んでくれと頼み込むように、そんな頼みを本当にしたことがあるわけではないが、お金を払うから社会的責任を付与してくれと企業にお願い申し上げたくもなるこの頃であって、実際問題関心のある事業に携わらせてもらえるならば月額1万円くらいなら喜んで支払いたい気持ちはいくらかあり、むしろ参加費を支払って参加する程度の距離感の方が支配関係が適度に保たれるんでなかろうかと思わないこともなく、とはいえ面接の機会に月額1万円払うので雇ってくださいとの交渉に踏み切れるほどの度胸もないのである。
 ツイッターを見ればつい先日仕事を退職したと書いていた人が次の勤め先決まったと書き込んでいるなどしており、他人は他人、自分は自分と思いながらも、やはり焦りが発生し、今日も机の下で行われる貧乏ゆすりは止まることを知らない。

〈2〉
 いくら呑気な私でも収入がないことには生活が営めないことくらい認識しており、収入の見込みがない現状が続くのは危機的であることも理解しているため、正規雇用契約社員での勤務は一度諦め、時給制のパートに応募し本日面接を受けてきたところだ。週5日1日7時間勤務の時給1,000円という条件でこの先に過酷な生活が待っていることは目に見えているが、時給0円生活をいつまでも続けてはいられない、そもそも私の1時間に985円の価値があるのかすら自信がないのは前述のとおりだ、1,000円もの価値を見出してくれるのであれば万々歳である。高望みはせず最低限の条件で雇ってもらい、どこかのタイミングで夜のバイトも入れるなどして時間を切り売りしながら細々と生活を送る以外にもはや選択肢は残されていないため、なんだかんだで半年以上労働から遠ざかっているのだからリハビリとして1年ほど単純労働に励み、来年4月の定職獲得を目指す道もアリではないかと自分に言い聞かせてはいるが、なにか典型的フリーターの末路を辿っているようで気が気でない。
 あるいは、一日7時間勤務というゆとりを生かして、それこそかねてより希望している文集づくりなどに着手してもよさそうだが、一人で行動を起こせない性格が邪魔をしていまいち企画づくりには乗り出せないし、何かをつくる遊びを気軽に誘える友人もおらず、仲の良い友人が近くにいる人が羨ましいなあとおそらく小学校高学年の時から抱いているだろう思いをいつものように掘り起こすのだ。結局私は友達という存在に憧れていて、友達という存在と心ゆくまで遊んでいたいだけなのだと、最近は自己に渦巻く欲望には自覚的であり、なぜ友達と遊ぶことに憧れているかといえばやはり幼少期からの羨望や嫉妬に起因しているため、そろそろ忌々しくも付き纏う過去から解放されたいのが本当のところだ。

〈3〉
 安定した職に就いて、安定は別にいらないかもなと退職し、いざ不安定な生活をしているとやはり不安なもので、何が不安かといえば一番に金銭である。人間という存在はどうやら能動的に死ぬことは許されておらず、生きる術を失っても死んではならず手段がないなりに生きなければならないという苦を請け負っている。人間の生命は生死の二項対立で済む話ではなく、生と死の間に更にいくつかの段階があって、死のひとつふたつ手前くらいが死以上に残酷な段階なのではないだろうか。そして今自分はどの段階にいるのだろうかと不安が発生し、寝て、忘れて、また夜になるとより大きな不安として現れる。
 私は不安を払拭するために本を読む。連なった文字を読み取り、文字を連ねた人物の思いを少しでも汲み取ろうと励む。他人が書いた文章は私に安らぎを与える。
 結局のところ、不安が生じるのは自分の意志がないからで、ここで言う意志とは軸だとか物差しだとかコンパスだとかの意味合いになるのだが、意志がないからやりたいと思っていることにも踏ん切りがつかないし、意志がないから組織から与えられた意志に従って与えられた仕事をしているのが安定していられるし、意志がないから本を読んで他人の意志を覗き込めると安心できるのだと思う。
 私は私が何をどうしたいのかがわかっておらず、それどころか何をどうしたいという思いを抱いてすらなく、ただなんとなく資本主義経済の下、消費社会の下、それらの名詞が一体なにを意味するのかもわからないまま動かされるように動いているだけなのだろう。
 私なる意識、意識なるなにか、それが一体なんなのかもわからずに自己をPRできるはずもなく、志望の動機を見つけられるはずもなく、いつまでもスタート地点でぐるぐると廻り続けてしまう。振り返れば中学三年の頃はよくわからないから高校進学しなくてもいいのでは、と言い続けて親や担任教師を困らせていたし、高校三年の頃も生きる意味がわからないから進路を決められないとこれまた親や担任教師を困らせていた。23のいま、親や教師がいなくなった状況で私はまたわからなくなっている。あるいは、ついわからなくなってしまうのが私なのかもしれない。わからなくなってしまうことを繰り返していまに至り、いまもなおわからなくなっているのであれば、わからなくなるのが私の自然体であり、わからなさとどう向き合っていくのかが私が生きる上でのゲームなのかもしれない。

 本稿において何を書きたいのかもわからなくなっているのでもうやめにしよう。いま私が述べたいことは『映画ドラえもん のび太の月面探査記』がかなりおもしろいということだけだ。