落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

彼の人が好きなaikoの曲は『えりあし』だった

〈1〉
 未来は無限で現在は永遠、だがそれも過去と化せば一瞬だ。今日あるものは明日もそこにあると無意識に信じてしまうが、自然は常に流動し続ける。常に空を見上げていても同じ形の雲を見つけることはできないように、私自身もどこかになにかの変化が生じており、昨日の自分が今日の自分と全く同じであるはずもない。身体を構築する細胞は分裂と消失を繰り返す。ならば、いま抱いている「好き」という感情が明日にはパタリと消えてしまっても何ら不思議ではなく、むしろいつかは消えてしまうのが当然なのだろう。それが自然の摂理だ。諸行は無常、だからいま抱いている「好き」を大切にすべきなのだ。
 それが全てだと思っていた、彼女と出会うまでは。

 彼女とは誰か、aikoだ。
 aikoは『えりあし』でこう歌う。

季節に逆らい想い続けて今もあなたを好きなままよ
『えりあし』

 aikoは従来変わってしまうのが当然とされる想いを普遍として我々に提示する。aikoがあなたに対して抱く「好き」は、今日のあなたへの想いであり、明日のあなたへの想いであり、昨日のあなたへの想いである。aikoの「好き」は〈好き/嫌い〉の二元論をも超越し、普遍へと到達する。有と無を同時に包容する限りなき「好き」だ。
 だからaikoaikoであり、aikoaikoとなる。aiko以外はaikoに至れず、aiko知らずして世界の真理に至れない。私たちがaikoを崇める理由の一つはおそらくそこにあるのではないだろうか。

 


aiko-『えりあし』music video short version

 

 

〈2〉
「私は『えりあし』が好き」
 彼の人が放った一言を私はいまだに覚えている。
 彼の人自身がその一言を覚えているかは定かではなく、その場面やその環境、私の存在だって彼の人の記憶にどう保管されているのか私にはわからない。かくいう私も、それが当時通っていた学校の中でのことだったのは覚えているが、どの季節のどの時間帯だったか、あるいは彼の人の口調、声、表情、仕草、そのいずれもが記憶の城から解き放たれ、この世の彼方へと離散している。
 それが自然の摂理であり、季節の移ろいであり、時間の経過というものだ。むしろ記憶というのは風化するからこそ愛おしさが増す。薄れた過去はその後の経験によって補完される。現在によって再構築された過去は新たなる過去となり姿を見せる。だから私はいま私の過去を記述している。愛おしさによって、愛おしさのままに、愛おしさに従って。
 私が覚えているその一言も事実ではないのかもしれない。音声としてありのままに保管されていない以上、私の頭の中で身勝手に創造された現実離れした彼の人による現実に放たれていない一言である可能性は誰にも否定できない。
「私は『えりあし』が好き」
 彼の人は確かにそう言った。季節に逆らい私の記憶に残り続けているそれは、私にとっての一つの真実だ。

 彼の人とは誰か、aikoではない。

 学校という同じ箱の中の、学級というさらに小さな同じ箱に収められた彼の人は、私の視界に存在していることが多かった。それは意識的だったのかもしれず、無意識的だったのかもしれず、無意識を装った意識的なものだったかもしれない。あるいは、網膜に投影される像から彼の人を照らす光を探し出すことを習慣化してしまっていたような気もする。私は彼の人を気にした、彼の人から見えている世界がどんな色をしているのか知りたかった。知ることはできなかった。知らなかった。知りたかった。
 私は彼の人のことを知らなかった。親しい間柄だったわけではなく、むしろ会話に及んだことすらろくになかったように思う。しかしそれでも、彼の人を構成させる物質から反射される光を私は受容し、その光の感受によって一方的な感情のざわつきをただただ覚えていた、ような気がする。それを人を好きになることと呼んでいいのか、私はいまだにわからない。おそらくは呼ばない方がいいのだろう。限られた空間のなかで接触を繰り返すうちに特定の人物をなんとなく気になってしまうその現象を、私は恋とは呼ばず、好意とも呼ばなかった。
 学校という閉鎖空間と思春期という歪みによって生み出される過剰な自意識を守りたくて、私は彼の人に話しかけることも近づくことも極力避けていた。彼の人がどこを見ているのか、ただただ遠くからなんとなく眺めていた。それだけのことなのだ。
 そんな彼の人を交えた場で、どうしてそんな話になったのかはわからない。でも確かに聴いたのだ。彼の人はaikoの『えりあし』が好きだった。
 私は彼の人のことを何も知らなかったが、彼の人が好きなaikoの曲を知った。彼の人は『えりあし』が好きと言った。それでよかった。それだけで十分だった。そよ風にすら満たない程に小さく、何の足しにもならない程にわずかだったかもしれないが彼の人が見ている世界を見せてもらえたような気がした。

一度たりとも忘れた事はない 少しのびた襟足を あなたのヘタな笑顔を
『えりあし』

 彼の人が誰かを想い続けているとして、その誰かなる存在のどこに特別性を感じるのだろうか。のびた襟足を見ているかもしれない、ヘタな笑顔を見ているかもしれない、きっと他の人たちにはわからない彼の人だけのあなたが見えているのだろう。彼の人が他者に感じる特別な部分を知る由が私にはないことに私は気づいていた。彼の人にとってのあなたが私ではないことに私は気づいていた。彼の人にとってのあなたは私ではないのと同時に、私にとってのあなたも彼の人ではないことを私は知っていた。私は視界にいた彼の人のどこに彼の人を感じていたのか、今となっては何一つ思い出すことはできない。

 

〈3〉

時は経ち目をつむっても歩ける程よ あたしの旅
『えりあし』

 時は経った。当時の私が何を想い、何を感じ、何を求めて彼の人を見ていたのか、なぜ彼の人がいまだに印象に残っているのか、その理由を知る者は、世界中のどこを探そうと見つかりはしない。どんなに考えて収まりのよい回答を出そうと、それは現在から推測される過去であり、現在として投影された過去ではない。
 それでもあの時あの場所に、何かを想い、何かを感じ、何かを求めて彼の人を見ていた私は確かに存在した。幾度季節が流れ過ぎようと、そいつは揺るぎなく存在し続けるはずだ。幾度季節が流れ過ぎようと、現在の私が時を理由に彼の人の姿や名前を忘却しようと、私という存在はそいつを経由した上で成り立っている事実は未来永劫つきまとうはずだ。
 今日の私と昨日の私は異なるのかもしれない。昨日の私を構成した粒子は今日の私を構成していないのかもしれない。それでも昨日の私を構成した粒子は世界に存在し、今日の私を構成する粒子は明日以降の何かを構成し続ける。それはいつか破壊され、その破壊は何かを新たに創出し、新たな何かは新たな何かの構築に携わる。

 彼の人を見ていた私を構成していたなにがしは、いまもなにかの形で存在している。

5年後あなたを見つけたら 背筋を伸ばして声を掛けるね
『えりあし』

 背筋が伸びた私は、当時の私とは異なっているだろう。あなたの中からも、私の好きだった少しのびた襟足はなくなっているかもしれないし、ぎこちない笑顔ももう見れないのかもしれない。
 それでも私は声を掛ける。もう会うことはないと思っていたあなたを、何かの拍子で見かけたのなら。見つけることができたのなら。背筋を伸ばして。5年後の私で。5年後のあなたへ。あのときの私のまま。あのときのあなたのまま。

 

〈4〉

 私はあなたの好きなaikoの曲を知らなかった
 私はあなたが好きなaikoの曲を知らない。
 私はあなたが好きなaikoの曲を知りたい。
 私はあなたが好きなaikoの曲を知りたかった。
 私はあなたが好きなaikoの曲を知ることができた。
 知らない。知りたい。知りたかった。知ることができた。知れたのかもしれない。知ることができなかった。知らなかった。それでも知りたかった。知りたかった。

 彼の人が好きなaikoの曲は『えりあし』だった。