落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

退職後の近況(再就職先を探すにあたってのあれこれなどを)

<1>

 昨年いっぱいで職を辞し、最近は再就職先を探す活動に励んでいる。いや、“励んでいる”とはあまりに誇張な表現。自由という錯覚を覚えながら穏やかな時間を過ごす日々の中で生活費という現実に少しずつ身体を蝕まれ、削られた身体のほころびをたまに確認してはやれやれと重い腰を上げ、転職サイトへアクセスし画面を一通り眺めて何かをした気になる、それがありのままの現状だ。

 次なる職探しを開始してからおそらく3ヶ月ほど経つ。本格的に取り組み始めたのは前職を退いた後だったが、病気休暇中にも暇つぶし程度にぼちぼちと求人広告を探しては応募をしていた。その頃はまだ時間的経済的に余裕があったため、インターネットに点在した就職活動マニュアルに目を通しては馬鹿馬鹿しいと一蹴し、ある程度のルール化を経て現代スポーツの認定も秒読みとなった就職活動なる競技に、どこまで自由な戦法が通じるのだろうかと御社各位に提出する書類を実験的に書くなどしていた。具体的には、御社や業界や社会を挑発するような内容の志望動機や自己PRをひたすら書いた。一生懸命売り込んだその喧嘩を買ってくれる企業はあまりなかった。

 切迫感を感じることなくのんびりと応募を出したり出さなかったりしていたわけだが、先日、ようやく某社の書類選考に通過し面接を受けることができた。
 前職を辞めた理由を訊かれた。前職に就いた理由が当時身を置いていた環境からの逃避であり、就いた時点で逃避の目的を達成していたためむしろ続ける理由がなかった、と何一つ脚色することなく素直に回答したところ、継続への意欲のなさが逆鱗に触れたらしく御社のおじさんよりお怒りのお言葉を頂戴した。
 御社のおじさんは呆れ顔で口を開く。
「じゃあ次の勤め先はいつ辞めるのか」
 別に辞めどきを考えているわけではなかったため、別に辞めどきは考えていないと伝えると、
「じゃあ長く続けるのだな」と続けて問う。
 何年勤めたか、は結果として現れる一つの形でしかなく、未来を決めかかって挑むのもよくないだろうと考え、長く続けるとも言ってないしすぐ辞めるとも言っていない、と伝えた。
「長く勤める気がない者を雇うことはできない」と御社のおじさんはさらに呆れる。
 まあ、そりゃそうでしょう。私も二十数年この世界で生きている。言わんとすることは重々わかる。わかった上で挑発をしているのである。
 これまでは雇用される者は組織に依存し組織は雇用した者を支配する構造がベターな組織のあり方だったのだろう。ただこれから先も同様の形で果たしてうまくいくのだろうかと、私の疑問はそこにある。雇用者は所属という受動的な姿勢と従属精神よりも、能動的な参加という姿勢と参加させてもらえるだけの能力が重視され、雇用主は参加意欲を駆り立てる熱い事業に取り組まればならない、それが未来における組織なのではと漠然とではあるがそう思い描いている。
 意図的にそうした姿勢を取っているのか御社のおじさんはとりあえず否定というスタンスであり、お互いの考えを知ろうと自由に話す雰囲気でもなく、描く組織論のベクトルが異なる両者の話し合いが成立する雰囲気では決してなかったため、結局へこへこしながら大人しくその場を済ませた。喧嘩を売る割には殴り合いを避けたがるのが私の長所である。というか、そもそも面接試験とは一般的に“一方的なアピールの場”であって“話し合いをする場”ではないのかもしれない。

<2>

 破壊。破壊への欲求。破壊を求めている自分がいる。次なる就職先を求め自己を振り返る過程でそう気づいた。
 何を破壊したいのか。自己だ。私は私を破壊したい、おそらくは。ついでに他者も破壊しよう、たぶんそう考えている。
 地方の貧困層に位置するだろう家庭に生まれ、家庭と学校以外の世界を知らず閉塞的な環境下で20年近く過ごし、就職を機に上京し4年ほど過ごした。上京してからの4年で得た情報量はそれ以前の20年で培ったものをはるかに上回るほどで、私の人生における最初の20年はあまりに小さくしょうもないものだったのだと思い知った。
 そのしょうもない20年を土台に築いた今の生活を、否定し、破壊し、土台の部分から再興したい。それがいま私が抱える本質的な欲求なのだと思う。逃避だけでは飽き足らないのだ。
 破壊とは、興隆への準備だ。人類は得てして破壊を経て文明を発展させてきた。明治期の銀座は大火災をきっかけに一早い西洋化へ至ったのであり、昭和期の日本は敗戦をきっかけに経済成長を遂げることができた。安定した現状という予防線を破壊し、不安の道に迷いこむことで再興は行われる。その破壊を、私は自分自身に遂行したい。
 破壊は大きな摩擦を生じさせる。意図的な破壊は難しく、だから人間は戦争や自然災害に破壊の機能を委ねたが、それらは当然のごとく大きすぎる犠牲を伴った。破壊に摩擦は必要だが、犠牲は必要でない。犠牲のない、大きな摩擦だけの破壊を、清らかで美しい破壊を。

 人間のシステムが変化する段階を比喩的に「戦前/戦中/戦後」として考える、もしくは「現状維持/否定と破壊/再興」と設定すべきか。現状は継続によって維持されるが、時に否定され破壊を被り、破壊された部分は再興される。再興されたその部分は現状を誘惑し、現状は次第に再興へと移行する。現状が移行した再興は次なる現状となり維持される。その現状はいつしかまた否定ののちに破壊される。全てその繰り返しなのではないだろうか。
 企業にしてもそうだ。現状維持を役割として担う企業、現状の否定と破壊に挑む企業、破壊に加わり再興に精を出す企業。きっとそれぞれの役割がある。私は破壊からの再興に挑みたいと就職活動を行うが、応募先が現状維持を目指していたのなら、採用試験にて方向性の違いは顕わとなるだろう。私が破壊への欲望と破壊から得る快楽をいくら語ろうとも御社のおじさんは呆れるだけだし、御社のおじさんがいくら現状維持への欲望と快楽を説こうとも私の腑に落ちることはない。

 私は私自身を破壊しなくてはならない。自身の中で喧嘩の売買を成立させなくてはならない。自己の破壊によって、自己を形成する自己以外のあらゆる他者をも破壊する。自己の破壊のために新たなる他者を渇望し、新たなる他者によって自己は破壊され、新たなる他者によって形成される新たなる自己は新たなる他者をも形成させる。新たなる自己は新たなる私を形成し、かつての私はどこかへ消え去る。だから私は環境を捨てた。だから私は環境を求める。
 過去に規定された私は、過去の否定と破壊という経験を経なければ過去を受け入れることはできない。過去の否定によって未来を築こう。私の手元には停滞によって生じた破壊衝動がある。一度すべてを終わらせる、そこにしかもう活路はない。
 破壊の末に解放を夢見る。美しく散り、醜く果てる。冷え枯れた先に見える寂れた景色へと。朽ち果てた身体で迎える地獄に祝福を。

 以上が近況です。今年は厄年らしい。