落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

 人が人を好きになるとき対象のどの面に対して好意的感情が発生するのかを考えたところで多くの個人は大変な多面性を有し、場面に応じて使い分けながら社会を生活しており、また、その多面性の中で相反する要素を同時に抱えることも往往にしてある。好きな人のタイプ、なる言葉を耳にすることが度々あるが、果たして自分が好きになる人の傾向を分析し、抽象化した「タイプ」として一括りにすることが可能なのだろうか。

 例えば、あなたは好きな人のタイプとして「やさしい人」を公言しており、いまあなたが最も親愛するパートナーとなっている人も実に「やさしい人」であるとしよう。ここで記される「やさしい」がなにをどうもって「やさしい」とされるのかは入念な議論の必要性があるが、この際それは大きな問題ではなく、あなたの正義感に基づいたいまのあなたなりのやさしさをイメージしてもらえれば良い。「やさしい」について深く考えようとする試みこそが何より「やさしい」行為とも言えるかもしれず、いくらやさしさについて頭で考えようとも実践しない限りには「やさしい」とは言い難いと批判することこそが「やさしい」と言えるのかもしれないが、この場においてその差はやはり大きな問題にはならない。とにかくいまはあなたなりの漠然とした「やさしい」を思い浮かべてもらいたい。いまあなたが定めた「やさしい」と同じベクトルを向いた「やさしい人」であるパートナーがいたとして、その「やさしい人」であるパートナーを「やさしい」値において上回った新たなる「やさしい人」が現れた場合、そこに互換性は生じるかといえばそれは否であるはずだ。つまり、ある個人の視点において別の個人は代替不可能な存在にもなり得るはずで、代替不可能な存在をとあるタイプとして抽象化することはおそらくできないだろう、と示したかったのだが、もはやそれすらも大した問題にはならないのかもしれない。

 人が人を好きになったとき、対象自体がどんな存在であるかではなく、自分にとって対象がどんな存在であるか、つまりは自分と相手が共有した時間が自分にとって好意を抱けるものであったかに起因しているのだと思う。好意的感情は対象が経験と記憶を引き起こすことによって生じるのではないか、と。

 好意の対象は人だけに限らず、例えば好きな色についても同様なことが言えるかもしれない。そして色といえば、あるいはあなたはあることに違和感を抱えているかもしれない。なぜこの文章は青で書かれているのだろうか、青で書かれていることはなんの伏線なのだろうかと。もしあなたがこうした疑問を抱えている場合、その疑問は正しいとも言えるし、間違っているとも言えるのである。この場においてその差は大きな問題にはならないのだが、違和感を抱えるが故に読み進めることをやめてしまう可能性を考慮し、青字で書かれている胸の説明を述べよう。実は私はいまこの文章を赤字で書き進めている。そして投稿直前にフォントを青字に変更しようと考えている。書き進めている現在において、そう考えているだけであるため、青字に変更せず赤字のまま記事を公開するかもしれないし、青字ではなく緑字に変更するかもしれない。あなたがいま青字で書かれた文章を読んでいる場合は私の予定は遂行されたことの証であり、そうでない場合は当初の予定を変更したか、もしくは単に達成できなかったことによる。つまり本記事でどんな文字色を用いられているかは大した問題にはならない。

 好きな色について記そう。他人の好きな色なんてどうでもいいと思う者も多いとは思うが、少なくとも友人の好きな色くらいは把握しておくと大変便利である。例えば、その友人にプレゼントを買おうと思ったとき、好きな色を把握しておくと買おうと思った商品に色のバリエーションがあった際に迷わずに済む。些細なことではあるが、プレゼントをもらった者は好きな色をズバリと的中されたら喜びは増すかもしれないし、好きな色を覚えてもらえている事実に嬉しさを感じるかもしれない。ただし、好きな色を選ばなかったとしても、近しい関係性の人物から何らかの贈呈を受ける体験自体がプレゼントをもらう者にとって嬉しいことであると仮定した場合、プレゼントする物が赤であろうと青であろうと大きな問題にはならないのかもしれない。プレゼントする者は代替不可能だが、プレゼントする物は代替可能である。

 私の好きな色は赤である。だからというわけではないが前述のとおり本記事は赤で綴っている。思えば、小学生の頃は水色が好きだった気がするし、戦隊ヒーローで好きなキャラは赤ではなく青だった。小学生の頃は水色が好きだったのは、ランドセルにおいて赤は女子児童の所有物であるという刷り込みによる赤に対する抵抗感のせいかもしれず、水色の持つどこか涼しげな爽やかさに憧れていたのかもしれないし、クラスの人気者だったみずきちゃんの名前に似ていたからかもしれない。いま赤が好きなのは、中学高校の頃の部活動のジャージの色が赤だったことによる接触回数の多さのせいかもしれず、高校生の頃にもっぱら青ペンで授業のノートをとっていた影響で青を見たときに勉強のうんざりさを無意識に連想してしまっているのかもしれず、歳を重ねる中で燃え盛る炎のように情熱的な性格が心の奥底から生まれてきているのかもしれない。いずれにしてもそれらの差は気にかけるほどのことではなく、私の好きな色が赤であろうと青であろうと、本記事で用いられる文字色と同様に大した問題ではない。

 私が赤で書いた文字をあなたは青い文字で読む。色が与える心理的な作用がなんらかの印象変化を与えるかもしれないが、赤で書かれた本記事と青で書かれた本記事の差を知るのは、わざわざコピペして赤に変更して読み直す奇特な者が現れない限りにはおそらく私だけであるため、本記事を読むにあたり文字色は大した問題ではなく、仮に赤字と青字との間に差があったところでやはり問題はないように思う。

 これは好意にまつわる記述であり、記憶にまつわる記述であり、あるいは何一つ意味のない文字列である。人間は過去の記憶により現在を構築し未来をも想像することのできる動物であり、私たちの行動は過去に突き動かされ、もしくは未来に引き寄せられ、あるいはそのどちらでもないのかもしれず、それが大きな問題になるかについては私の想像でははるかに及ばないのである。