落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

自宅療養

 いろいろあり9月末まで休職と相成っていたが、その後もいろいろあり年内休職という形に落ち着いた。この状況や私の精神状態が果たして落ち着いたといえるのかと疑問が生じていることも事実ではあるが、それは言葉のあやというやつである。

 言葉というのは利便性の一方で非常に厄介なもので、例えば上記した「いろいろ」って具体的に何色と何色なんですか赤色ですか青色ですかあるいは黄土色ですか、黄色い土の色は黄色なんですか黄土色なんですか、などと言語に圧縮された情報に要らぬ解凍を施すのは容易である。言語によって断絶することで解釈可能となったこの世界は一手間加えるだけで即座に抽象に戻すことが可能であり、表出される単語に圧縮された意味合いを逐一吟味していてはコミュニケーションは成り立たず、受け手が文脈からなんとなく意味を察しなければ会話など到底不可能だ。また「黄土色」のように音としての言葉が示唆する意味と言葉に当てられた文字から享受できる意味のズレは往往にして存在する。黄色っぽい土は黄土色であり、黄色い土があるとしたらそれは黄色と称している以上黄色以外の何物でもない。

 

 休職期間延長にあたり上司と面談を行った際「医師から“自宅療養”を要すると指示が出て休むんだからそれをわきまえてね」と言われた。ツイッター等でも度々話題に上がる“自宅療養”と“自宅謹慎”問題である。謹慎は身勝手な行動はせず家で慎ましく生活をしていなくてはならないけど療養はストレスのないよう外出したり活動したりしていいのだ云々のくだんの意見を思い出し、こうした場面ではむしろ“休職”や“自宅療養”という言葉を丁寧にほどき、互いの考えの差異を明確にした上でコミュニケーションをとった方が賢明なのだろうと思いながらも、多くの人々は面倒ごとは嫌いである事実に立ち戻り、そういう考え方もありますねと上司に伝えるだけに留まった。

 しかしこの“自宅療養”という言葉の字面と中身の乖離は思ったよりも甚だしいものだ。以前、休職というのは職場復帰を前提として与えられるものだ、と上司より説明を受けた。仮に休職の定義を上司の言うとおりに設定したとしよう。私の場合、職場に復帰するためには疲弊してしまった精神を健康状態に回復させることが大きな条件となる。では、精神状態を回復させるにはどうするべきか。精神疲弊の原因が職場である以上、職場と自分の距離を遠ざける、つまり自分の中での現職場の立ち位置を下げることが求められる。そのためには、仕事を休んで物理的に職場から距離を置くことに加えて、職場以外のコミュニティへの参加や職場とは関係のない人々との交流を増やして自分の生活における職場の割合を下げることも必要だ。世界の広さを知り、自分が所属している職場コミュニティが些細なものである現実を頭の中だけでなく経験をもって感じることで精神的負担を和らげる、そこに回復への活路が見出される。

 では、職場の立ち位置を低くする戦法に成功するとどうなるか。単純に「別にいまの職場に復帰する必要もないのでは?」と思うようになります、転職だやったー。

 精神療養を重視し視野を広げれば広げるほど相対的に現職場に対するこだわりは薄れ、現職場復帰への意欲も下がる。つまり、現職場への復帰を重視するのであれば、自宅に籠ってクローズドな世界を築きこの世は自宅と現職場の二空間しか存在しないのであると信じ込む方が有効である、なぜなら自分の中での職場の重要度が高まりそこに戻らないと生きることはできないと思い込めるから。だが、閉鎖的な世界に閉じこもっていてはストレス因である職場がつきまとうため精神の回復は難しい。要するに復職を大前提とした精神疾患による休職において“自宅”と“療養”は共存不可能とも考えられるのだ。

 もちろん“自宅療養”に示される“自宅”は比喩的な表現であって、職場でない場所という意味での“自宅”なのだろう。しかし“自宅”って言われてるんだから自宅でしょと捉える人々もいる。同じ言葉を扱いながら相反する状態を想定している状況もなかなかおもしろいものであるが、おもしろがっている場合ではない。

 

 私はもともと転職を検討していた中で精神を患ってしまったのでつい退職転職等を前提に考えてしまうため、それはそれでかなり偏った考え方になってしまっているとは思う。あなたは「休職」や「自宅療養」についてどうお考えでしょうか。