落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

ペンギン

 ペンギンという動物は、なぜあんなにも愛らしい姿をしているのだろうか。

 つぶらな瞳に、他を寄せ付けない黒と眩しいくらいの白が織り成す鮮やかなコントラスト、パタパタ開く小さな翼、ずんぐりむっくりとした図体、この世の愛らしさを全てつぎ込んだかのような、愛らしさに愛されしその存在は、見るもの全てを魅了する。やる気なさげに身体の重心をゆらゆらさせながら、短い足でよちよち歩くその姿に、心を打たれない瞬間はない。

 ペンギンは鳥類でありながら空を飛ぶことはできない。しかし、彼らは空を飛ぶかのごとく水の中を泳ぐことができる。エサである魚の捕らえやすさを求め、空を捨て、生きるフィールドを海へと移行したペンギンだが、その代償として、シャチやアザラシ、アシカなどの海洋動物に命を奪われる危険に見舞われることにもなる。

 結局どんな環境で生きようとも、プラスの面もマイナスの面も両方そびえ立っており、自分にとって譲れないなにかしらを一つ二つ尊重して、残るは思うとおりにしたいなどと考えずひたすらに我慢していかねばならないのだろうなと、職にストレスを抱え、職を休み、あわよくば職を転じようとしている自分とペンギンの住環境を重ね合わせる。そんなことはごもっとも、笑止千万、至極当然のことではあるのだが、大人になることとはすなわち我慢することであるというトートロジーがどうにも腑に落ちず、我慢なんてしたくないから我慢しないという自己主張を押し通す気になることしかできない。わがままを言い続けることがこどもであるというのなら、こどもの方がよっぽど尊いと感じてしまう。大人になりきれないうちは徹底的にこどもであろうと思うし、僕が子供で居続けられるよう、周りの人々には我慢と割り切りの身についた立派な大人になって一生懸命お勤めをしてほしい、そんなバカを願うばかりだ。というか、早くAIが人間の仕事を全部奪ってしまえばいい、僕らは人間から解放され、一度ヒトへと戻るべきなんだ。

 ああ、なんてたのしい現実逃避、虚しいだけの主義、挙句に乱れる精神。大人になれない僕らの、強がりを一つ聞いてくれ、そう強く叫んだところで、聞いてくれる人がどこにいるだろう。23歳、目の前がだんだん暗くなっている気がする。

 

 ペンギンといえば、森見登美彦原作の映画『ペンギン・ハイウェイ』がなにやら炎上中のようだ。発火元は、主人公のアオヤマくんがおっぱいおっぱい言いすぎるもんだから、こいつぁ性的搾取だ てやんでぃ、ということのよう。作中でのアオヤマくんのおっぱいに対する熱意は、同じヒトでありながら自分にないものに対する内発的な興味関心というか、もっと単純に自己とは異なる他者への関心でもいいのだけど、“自分と他人とはみんな当然違うんだし、先入観を捨てて違いがあることそれ自体を認め合うところから始めようぜ”的なダイバーシティインクルーシブのノリにむしろ近いようにも思う。おっぱいを性的たらしめているのは、おっぱいは限りなく性的であるとしてきたこれまでの歴史であり、歴史を築いてきた大人たちであるよなあとか、フェミニズムのサングラスによってなんでもないものが性的なるものとして成立することがあり、逆もまた然りであって、自分もなんらかのサングラスをかけているんだろうなあとか、なにかと思うことはあるのだが、ろくに吟味もせず適当なことを書いて飛び火を食らうのも嫌なので、この辺で留めておきます。ただ少なくとも、僕が観た限りでは、作中のアオヤマくんはおっぱいを性的消費しようなど考えていなかったし、性的消費するやつがいるとすればそれは紛れもなく観客の側だ。

 保険のためもう一度書きますが、うろ覚えの記憶で、ろくに吟味もせず適当なことを書いています、言葉の表現もろくに熟考してません、よろしくお願いします、マジで。

 

 この情報社会、ひとりひとりが情報発信可能なメディアとなった現代ではあるが、情報を得たのちに思考することが難しいのも去ることながら、思考を言語化することに尋常なまでの難しさを感じるこの頃だ。