落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

映画館

 文化的に満たされた生活は、精神的にも満たされた生活なのではないか。つまり、精神的に疲弊した僕は、きっと文化的欲求や知的好奇心を満たしていくことで豊かな心身を取り戻せるのではないか。そう確信した我々は、ジャングルの奥地へは向かわず、行き先を映画館へと変更した。

 

 今日は映画館へ行った。映画館で映画を観るのは久々な気がしたが、ログを辿ったところ7月1日に映画館へ行っているため、どうやらそこまで久々というほどでもないらしい。思えば、精神的な健康を保てていた頃はもっと頻繁に映画館へ行ったり、美術館へ行ったり、音楽や演劇のライブを観たり、ざっくばらんな己の興味関心に対し、もっと貪欲に行動していたような気もする。よくあるストレスチェックでは「興味のあったものに関心がなくなった」とか「以前は楽しめていたことが楽しめなくなった」とか、そんな項目が頻出する。精神的疲弊は、楽しかったことすらも奪っていく。楽しいことを楽しいと思うためにも心の余裕は必要で、楽しいと思えていたことが楽しいと思えなくなることは、やっぱりつらい。

 これ、百万歩譲って趣味ならいいとして、例えば、好きな人を突如鬱陶しく思うなんてことなどもあるのだろうか、と考えるとけっこうつらくなる。僕はいまのところ好きな人たち、まあ主にSNSの愉快なフォロワー各位になるんだけど、弱音をインターネットの海へポストする度に励ましの声をもらったり実際遊びに誘ってもらえたりしていて、友人もそう多くなく、東京にいる知り合いもかなり限られていて、職場も当然信頼できないという状況にいる中、本当に大変な支えになっている。最後助けてくれるのはやはり人なのかな、と思うし、おかげで恋人とか親友とか、互いが互いのことをかけがえのない存在であると信じ合うような関係性を、ちょっとだけ、ちょっとだけ羨ましくも思う。例えば、そんなかけがえのない相手に対してだ、つらいときにそばで寄り添ってくれる人のことを鬱陶しく思うようになってしまったら、こんな居た堪れない状況があるのだろうか、そんな気がする。世の人々が頻繁にくっついたり離れたりしている様子をみる限り、そんな思い悩むような状況には陥らないのだとも思うけど、想いが一方的に空回りしてしまう状況というのはやはりつらいし、怖い。僕はたぶん、想いの空回りを極度に恐れるがあまり、人付き合いから逃げ、人との距離感を必要以上に保つようになってしまったのだと思う。

 

 話が逸れた。なんの話だ。映画館の話だ。

 

 僕は映画館で映画を観るとき、作品を楽しむことも去ることながら、映画館へ行くことそのものに対するワクワク感がいまだにある。ロビーに広がるキャラメル味のポップコーンの独特の匂い、やけに静まった薄暗い劇場内、でかでかとしたスクリーンと音、テンプレ化した劇場予告、映画館というひとつのエンターテイメントがそこにはある。映像作品や音楽、絵や本等、作品という情報それ自体の金銭的価値が下がる中、映画館で味わえる体験は唯一無二的なところがまだまだあるし、ネットフリックス等のサブスク系サービスで気軽に映画が観れるようになったからこそ、映画館の価値というものが却って目新しくなっていくのではないか、そんな予感すら覚える。というか、そうあってほしいのだ。

 僕は映画が好きだし、映画館も好きだ。でも、映画館でのポップコーンは正直かなりの騒音だと思います。