落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

おはようからおやすみまで

 こんなことを冒頭に堂々と書いてしまうと人間性が疑われてしまうが、人間性という曖昧模糊としたパラメータの高低をいちいち気にしても仕方ないので堂々と書き切ってしまおう。

 僕はあいさつが得意でない。

 

 会話という行為が持つ機能は「情報や概念の伝達」「関心があることの意思表示」と大きく二分できる。前者は要するに事務連絡、互いが持つ情報の交換、発する言葉の内容が大きな意味を持つが、後者はそうではない。例えば、「暑い日が続きますね」とか「今日はどちらへ行かれるんですか」とか、いわゆる雑談、無駄話、エレベーターを待つちょっとした隙間時間に一言二言交わされる世間話、そんな類。内容自体にさしたる意味はなく、人と人とが言葉を交わすこと自体に意味がある。そして、日常で行われる会話の多くは、コミュニケーションのためのコミュニケーション、つまり後者、他者に施す毛づくろい的機能が多くを占める。

 

 そんな知識をインプットするもっと以前、あいさつの意味を考えたことがある。「おはようございます」はオンラインゲームにおける〇〇さんがログインしました、「さようなら」は〇〇さんがログアウトしました、さしずめそんな意味合いだろうか、などと思っていた。コミュニティへ出席したことの表明、適応障害休職戦士ここに見参、高らかなる自己主張だ。

 

 おはよう、行ってきます、ただいま、失礼します、さようなら。あいさつ、要するに己の存在がその場に加入することあるいは退散すること、及びその場に対し興味関心を示すこと。純然たる情報としての価値を持たないが、コミュニティ内における自己の存在を既定する意味合いの持つそれらの言葉を自発的に発することにどうにも抵抗がある。

 自分に、今日も本コミュニティにやってまいりましたと主張するほどの価値があるのだろうか。もし自分が疎ましく思われていたら、毎日繰り返されるその自己主張は、かなりウザいものなのではないか。もし自分がコミュニティ内で価値を発揮できていなければ、情報として中身のない「おはようございます」という言葉は、虚しく空気を震わせ、煩わしさを伴った波動として相手の鼓膜に届くだけなのではないか。そんな迷いが、あいさつを試みようとする僕の喉を硬直させる。

 また、いまこの目の前にいる相手に対し、自分は心から関心を抱けているのだろうか、そんな思いが湧きあがってしまう。たまたま同じコミュニティに所属しただけの人々を、たまたま同じ部署に配属されただけの人間を、すべて同列に愛することは難しい。人と人とは分かり合えないことの方が多い、相性なんて運である。自分は、いまこの目の前にいる相手に毛づくろいを施すほどの関心を、果たして本当に抱いているのだろうか。僕が週5日通っていたその環境において、多くの場合、それは否であった。関心を抱けない相手に関心があると偽りの意思表示をすることは、相当の我慢が強いられる。

 

 僕はあいさつが得意でない。すべての人を平等に関心の対象に置くという、至極まっとうなことが上手くできない。人間性という曖昧模糊としたパラメータは、決して高くはないのだろう。

 

 昨晩のことだ。他人と連絡を取る機会の少ない僕であるが、めずらしく人と電話で話をした夜だった。その電話においては「こんばんは」で始まり、「おやすみなさい」で話を終えた。「おやすみなさい」で締めくくる一日は、なにかとても良いものだと思った。