無自覚活動記録

幸せになりたい

春は憂鬱、せめて春眠は暁を覚えないでくれ

 年度が替わる。

 

 3月までの中学三年生は4月から高校へ通うようになり、「俺たちはこの先も友だちだ」と同級生と卒業式で誓い合うも、進学先でもっとおもしろい人と出逢い、あれよと旧友のことなど忘れてしまう、そんなことがあるかもしれない。

 3月までの高校三年生は地元を離れ東京の大学へ通うようになり、地元を離れることが原因で泣く泣く恋人と別離、落ち込んでいるのもつかの間、新天地でより良い人と巡り会う、そんなことがあるかもしれない。あるいは連日のコンパで心を汚され「女を抱かずには夜は寝られねえ」が口癖となる、そんなこともあるかもしれない。

 

 出会いは偶然、環境は無限、この世は可能性と言う名の無情で溢れている。いまある生活がベストとは限らない、そんなことを突きつけてくるのが春だったりする。

 

 私のような社会人の場合も、異動で所属部署が替わったり、自身に異動がなくとも他部署から異動してくる人がいたり、異動して出ていく人がいたり、新任職員が入ってくることがあったり。人事以外にも、業務分担ががらりと替わったり、仕事の方針に変化が出たり。

 

 兎にも角にも春になると、身を包む環境が変わるケースは圧倒的に多い。この変化を、新たな生活のスタートと張り切って前向きになるか、また一からルーティンを形成しなければならないと億劫になるか、捉え方は人様々であるが、環境が変わるとその人自身もなにか替わらざるを得なくなるのは誰もが同じであろう。

 言うまでもないが、上記の二択でいくと私は当然後者、環境の変化がめんどくさい、新たな何かを強要させられたくない、そっち側の人間。というか、世の人全員新生活面倒側の人間じゃないんですか?環境を無理矢理替えるの、やめにしませんか?

 

 

 これはもう個人的な話。私は異動こそなかったが、4月以降から任される仕事が大きく替わるため、また小難しいことをゼロから覚えなければならない羽目になっている。どうにか平成28年度を食いとどめようと必死に説得こそしたが、「もう俺の居場所はここにはない。誰も俺を求めてはいない。時の流れには逆らえない。」と頑に主張する平成28年度の意思を曲げることはできず、当然のように4月到来、明日からより億劫になった労働に尽力しなければいけない。

 思えば、昨年の4月。このときも与えられた業務量が大きく増えたが、このときは何か目新しく覚えるというよりは、前年度に少しやらされていたことをメインとして与えられる、といった規模が大きくなるイメージに近かった。それでも最初の頃はミスを多発していたし、元々の要領の悪さもあってか、年度末が近づいてきた頃にようやく手慣れてきた感じだった。ようやく手慣れてきて、落ち着いて段取りをくめるようになってきたと思ったら、取り上げられてしまった。

 

 新たなことに自ら取り組むことは総じて楽しいものだが、新たなことをやらされるのは恐怖がつきまとうように思える。その差はミスの許容範囲。自分でやりたくてやることであれば、失敗だったり、うまくいかなかったり、というようなことも含めて面白いものである。しかし、“やらされる”ということは、最初は教えるけど早く覚えろ、早く慣れろ、早く一人前になれ、早く正確にできるようにならないと周りが迷惑する、といったプレッシャーが伴う。ミスに上限がある。心の中のハートマン軍曹に怒声を浴びせられる。

 

 いや、もう、単刀直入に言うと働きたくないだけなのだけど。昨年のミスを多発していた時期、ストレスで慢性的な頭痛に悩まされたこともあり、また同じことを繰り返してしまうのかと思うと、生き地獄としか思えない。春は憂鬱、労働怠慢を許さず。

 

 

 “仕事”という、社会からやらされていることに対して、世の人はどう割り切っているのか。そもそも人々は“仕事”をどう定義づけ、どんな思いで労働にあたっているのか。たとえ、やりたくて始めた仕事でも、仕事にすることで“やらされること”に成り下がってしまうのだろうか。

 仕事を怖れている私は今年で22歳であるが、一般的に見れば大学4年生で就活に励む年齢でもある。就活生は「仕事」「働くこと」について、どう解釈しているのだろう。

 私自身は、とりあえず親元を離れたい、地元を離れたい、という想いに100%の重きを置いて就職してしまったため、“仕事”に対する自分なりの定義付けも、いまの仕事に対する想いもないままに、ひとまず2年は過ぎてしまった。これでいいのか、なんとなく何か漠然とした世の流れに身を委ねるままに労働に励んでいていいのか、仕事をしているときは与えられたことに意見など持たず言われるがままに達成に向けて動くゾンビと化せばいいのか。いまの私はそれを良しと思うことはできないし、仕方がないことだと受け入れることもできない。労働のあり方が課題として明るみになってきている昨今でもあるが、社会としてではなく、まず自分なりの“仕事”の定義付けをはっきりとさせたい。

 繰り返しになるが、就活生も多い22歳という年齢は、時期的にも将来について具体的に考えるようなタイミングであると思う。自分はこの先どう生きていきたいのだろう。この先のことなんて何も見えないけど、いまの自分が目指そうとしているポイントを明確にして、意思を持って生活を送れればと思う。

 「時の流れには逆らえない」と言い残して平成28年度は去っていったが、僕は社会という大きすぎる流れに意思を持って臨みたい。社会の毒素になって適当に排出されてやる。新型毒素ことゆとり世代が社会にどんな影響を与えるかはまだ知る由もないが、ゆとり世代として、適当で気楽に世の中を泳いでいければいいと思う。こんな感じで平成29年度はやっていきたいと考えてます。

 

 

 年度が替わる。

 

 出会いは偶然、環境は無限、この世は可能性と言う名の無情で溢れている。いまある生活がベストとは限らない、そんなことを突きつけてくる春が今年もやってくる。

 

 何かとしんどいことが多いと思うけど、変遷する環境や時間に自分を見失わないよう、また一年頑張りましょうね。実に憂鬱だ。