落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

映画館

 文化的に満たされた生活は、精神的にも満たされた生活なのではないか。つまり、精神的に疲弊した僕は、きっと文化的欲求や知的好奇心を満たしていくことで豊かな心身を取り戻せるのではないか。そう確信した我々は、ジャングルの奥地へは向かわず、行き先を映画館へと変更した。

 

 今日は映画館へ行った。映画館で映画を観るのは久々な気がしたが、ログを辿ったところ7月1日に映画館へ行っているため、どうやらそこまで久々というほどでもないらしい。思えば、精神的な健康を保てていた頃はもっと頻繁に映画館へ行ったり、美術館へ行ったり、音楽や演劇のライブを観たり、ざっくばらんな己の興味関心に対し、もっと貪欲に行動していたような気もする。よくあるストレスチェックでは「興味のあったものに関心がなくなった」とか「以前は楽しめていたことが楽しめなくなった」とか、そんな項目が頻出する。精神的疲弊は、楽しかったことすらも奪っていく。楽しいことを楽しいと思うためにも心の余裕は必要で、楽しいと思えていたことが楽しいと思えなくなることは、やっぱりつらい。

 これ、百万歩譲って趣味ならいいとして、例えば、好きな人を突如鬱陶しく思うなんてことなどもあるのだろうか、と考えるとけっこうつらくなる。僕はいまのところ好きな人たち、まあ主にSNSの愉快なフォロワー各位になるんだけど、弱音をインターネットの海へポストする度に励ましの声をもらったり実際遊びに誘ってもらえたりしていて、友人もそう多くなく、東京にいる知り合いもかなり限られていて、職場も当然信頼できないという状況にいる中、本当に大変な支えになっている。最後助けてくれるのはやはり人なのかな、と思うし、おかげで恋人とか親友とか、互いが互いのことをかけがえのない存在であると信じ合うような関係性を、ちょっとだけ、ちょっとだけ羨ましくも思う。例えば、そんなかけがえのない相手に対してだ、つらいときにそばで寄り添ってくれる人のことを鬱陶しく思うようになってしまったら、こんな居た堪れない状況があるのだろうか、そんな気がする。世の人々が頻繁にくっついたり離れたりしている様子をみる限り、そんな思い悩むような状況には陥らないのだとも思うけど、想いが一方的に空回りしてしまう状況というのはやはりつらいし、怖い。僕はたぶん、想いの空回りを極度に恐れるがあまり、人付き合いから逃げ、人との距離感を必要以上に保つようになってしまったのだと思う。

 

 話が逸れた。なんの話だ。映画館の話だ。

 

 僕は映画館で映画を観るとき、作品を楽しむことも去ることながら、映画館へ行くことそのものに対するワクワク感がいまだにある。ロビーに広がるキャラメル味のポップコーンの独特の匂い、やけに静まった薄暗い劇場内、でかでかとしたスクリーンと音、テンプレ化した劇場予告、映画館というひとつのエンターテイメントがそこにはある。映像作品や音楽、絵や本等、作品という情報それ自体の金銭的価値が下がる中、映画館で味わえる体験は唯一無二的なところがまだまだあるし、ネットフリックス等のサブスク系サービスで気軽に映画が観れるようになったからこそ、映画館の価値というものが却って目新しくなっていくのではないか、そんな予感すら覚える。というか、そうあってほしいのだ。

 僕は映画が好きだし、映画館も好きだ。でも、映画館でのポップコーンは正直かなりの騒音だと思います。

メイク

 

 今日の夕方頃にポストした上のツイートは、かなり本気でやる気に満ちているのでぜひぜひ気軽にお仕事を依頼してもらいたいが、どこの馬の骨かもわからぬキッコロアイコンにあれこれ手伝ってくれだなんて気軽に言えるものでもないだろう。投げかけておけば誰かしら声かけてくれるだろうだなんて虫のいいことはこれっぽっちも思ってはいないが、もし活躍の場を与えてくれたら一生懸命頑張りますよ、無償で。どうぞどうぞよろしくお願いします。(遊びの誘い等もお待ちしております。)

 

 ルッキズムを肯定するわけではないが、なんだかんだで見た目というのは他者に与える印象に莫大な力を持つものである。ぼくは長いことツイッターのアイコンを愛・地球博公式キャラクターであるキッコロに委ねているが、おかげでフォロワーとオフで会った際には「愛知県出身じゃないんですか?」や「もっと背低いかと思ってました」などと言われたことがある、秋田県出身の身長178cmである。SNSのアイコンですら人の性質を印象づけてしまうのである。

 アメリカの屈強なプロレスラーやニュージーランドラグビー代表選手をアイコンにしていたら、せめてオンライン上だけでも筋肉隆々でいられただろうか、などと後悔の念を抱くが、出会ってしまった際の印象の落差が事故では済まなくなるため良しとしよう、体重49kgである。

 しかしながら、SNSでさえ外見で印象を左右することが可能であるのだから、オフライン上では尚のこと、というのは想像に難い。髪の毛はいつもボサボサで、衣服も手に取ったものを適当に着る、そんな自身の外見に対する解像度が著しく低い日々の行いを振り返りながら、もっと自己プロデュースというものに努めた方が生活は豊かになるのかもしれないと物思いに耽る。

 

 外見に対する意識の低い僕であるが、実は化粧に大変な興味がある。はっきり言っておんなのこになりたい、概念としての“おんなのこ”に。

 思い立ったが吉日、休職という人生の夏休みを手に入れたのもいいタイミング、ここはひとつお化粧にトライしてみようとYouTubeメイク動画をいくつか見てみたが、化粧をしたいという欲望関係なしに、多様なアイテムを駆使し顔をデザインしていく様子が単純におもしろかった。なんで男性の多くは化粧をしないのだろう、そんなことを自然と思ってしまうくらい化粧という行為が魅力的に思えた。

 化粧とは生き方をデザインする術の一つなのかもしれない。近日中に道具を揃えようと思う。

おはようからおやすみまで

 こんなことを冒頭に堂々と書いてしまうと人間性が疑われてしまうが、人間性という曖昧模糊としたパラメータの高低をいちいち気にしても仕方ないので堂々と書き切ってしまおう。

 僕はあいさつが得意でない。

 

 会話という行為が持つ機能は「情報や概念の伝達」「関心があることの意思表示」と大きく二分できる。前者は要するに事務連絡、互いが持つ情報の交換、発する言葉の内容が大きな意味を持つが、後者はそうではない。例えば、「暑い日が続きますね」とか「今日はどちらへ行かれるんですか」とか、いわゆる雑談、無駄話、エレベーターを待つちょっとした隙間時間に一言二言交わされる世間話、そんな類。内容自体にさしたる意味はなく、人と人とが言葉を交わすこと自体に意味がある。そして、日常で行われる会話の多くは、コミュニケーションのためのコミュニケーション、つまり後者、他者に施す毛づくろい的機能が多くを占める。

 

 そんな知識をインプットするもっと以前、あいさつの意味を考えたことがある。「おはようございます」はオンラインゲームにおける〇〇さんがログインしました、「さようなら」は〇〇さんがログアウトしました、さしずめそんな意味合いだろうか、などと思っていた。コミュニティへ出席したことの表明、適応障害休職戦士ここに見参、高らかなる自己主張だ。

 

 おはよう、行ってきます、ただいま、失礼します、さようなら。あいさつ、要するに己の存在がその場に加入することあるいは退散すること、及びその場に対し興味関心を示すこと。純然たる情報としての価値を持たないが、コミュニティ内における自己の存在を既定する意味合いの持つそれらの言葉を自発的に発することにどうにも抵抗がある。

 自分に、今日も本コミュニティにやってまいりましたと主張するほどの価値があるのだろうか。もし自分が疎ましく思われていたら、毎日繰り返されるその自己主張は、かなりウザいものなのではないか。もし自分がコミュニティ内で価値を発揮できていなければ、情報として中身のない「おはようございます」という言葉は、虚しく空気を震わせ、煩わしさを伴った波動として相手の鼓膜に届くだけなのではないか。そんな迷いが、あいさつを試みようとする僕の喉を硬直させる。

 また、いまこの目の前にいる相手に対し、自分は心から関心を抱けているのだろうか、そんな思いが湧きあがってしまう。たまたま同じコミュニティに所属しただけの人々を、たまたま同じ部署に配属されただけの人間を、すべて同列に愛することは難しい。人と人とは分かり合えないことの方が多い、相性なんて運である。自分は、いまこの目の前にいる相手に毛づくろいを施すほどの関心を、果たして本当に抱いているのだろうか。僕が週5日通っていたその環境において、多くの場合、それは否であった。関心を抱けない相手に関心があると偽りの意思表示をすることは、相当の我慢が強いられる。

 

 僕はあいさつが得意でない。すべての人を平等に関心の対象に置くという、至極まっとうなことが上手くできない。人間性という曖昧模糊としたパラメータは、決して高くはないのだろう。

 

 昨晩のことだ。他人と連絡を取る機会の少ない僕であるが、めずらしく人と電話で話をした夜だった。その電話においては「こんばんは」で始まり、「おやすみなさい」で話を終えた。「おやすみなさい」で締めくくる一日は、なにかとても良いものだと思った。

Prologue

 全身に圧力を感じる。

 

 深海に迷い込んだかのようだ。耳は圧迫され、頭には一本の直線を引くように痛みが突き抜ける。息が苦しい。肺は海水を取り込み、喉には交通規制がかかる。無意識にそこを行き交っていたはずの空気が滞る。

 

 明日が遠い。手を伸ばせば届く距離にありながら、手を伸ばすことができない。ようやっと手を伸ばし、両手でそっと包み込んでも、指の間をするりと抜け、また少し先へと逃げてしまう。明日を待ち、明日が来れば、また明日を待つ日々。明日。明日が遠い。

 それでいて、刻一刻と過ぎ去っていくいまこの瞬間は、残酷なまでに止め処ない。鋭く尖った刃を持つその逆風は、身動きの取れない僕の身体を容赦なく切り裂きながら、目で追うことが許されない速さで駆けていく。僕が動かなかったこの一秒に、動き続けている人々がいる。動けなかっただけだと、言い訳をするこの一秒に、動き続けている人々がいる。

 

 不安。混乱。空虚。焦燥。人は誰だってそんな圧力を感じている、はず。

 

 無意識。我々は、正常に機能しているものに意識を向けることはあまりない。お腹が痛いからお腹の調子が気になる。猛暑の日には空調を入れる。電車が止まれば時計に目をやる。異常とは、すなわち行動の起因である。

 昆虫は、痛みを活かして危険を回避する必要がないほど寿命が短いことから、痛覚を持たないという。痛みという異常が生きるための機能であるように、異常を感じなくなった人生など人生ではない、と僕は思う。

 

 人は安定を求める。僕の就く為事は、「安定」の代名詞として、皮肉交じりに度々用いられる。安定した生活、波風の立たない生活、そんな日々に馴染みきってしまった人々は、徹底的に変化を嫌う。しかし、変化を拒み続ける人々を尻目に、人が築き上げた時代や社会や文化は誰にも予測がつかないほど自由に絶えず動き回る。セブンイレブンで和同開珎は使えない。

 

 安定と不安定の狭間で、その軋轢に耐えかねた僕は、心身の不調に陥る。不安定を肯定していた僕の手元に残ったあてどない不安は、あまりうれしいものではなかった。

 

 人間。社会。生活。幸福。あてどない不安を抱え呆然と立ち尽くす僕は、彼らを意識下に置く。

 

 こんな状態に陥りましたので、一ヶ月ほど休職と相成りました。リハビリがてら日記のようなブログをぽちぽち書ければなと思います。

 

私と労働

 ここのところ、職を辞そうかな、という気分になってきている。

 

 元々、25歳までには転職をしようとは考えていた。現在の職に就いた理由が「地元を出たい」「親元を離れたい」の2点だったため、就職に際して仕事に対する目的意識は全く持っていなかった。それでも一応「せっかくだから数年は身を固めておこう」と漠然とした根拠にならない根拠に基づき、なんとなく区切りの良い25歳まではいまの職を勤めようと思っていた。5の倍数ってどうして区切りよく思えるんでしょうね。

 

 就職してから今年で4年目である。1~2年目は気付かなかったが3年目であった昨年度、私が配属されている部署がどうにもぬるいことに気がついた。人が立ち去った直後の電車(中央線通勤快速高尾行)のシートのように、それはもうヌクヌクであった。人によっては、職場の雰囲気が緩い、仕事が易しいなどということは、喜ばしい条件にもなりうるのかもしれないが、私はそうは思えなかった。

 

 私はアホな高校へヘラヘラしながら通って、ヘラヘラしながら卒業し、大学にも行かずヘラヘラしながら就職した身であるのだが、それまで貫いていたそのヘラヘラしたスタンスのおかげで身についたものが何もないことに気づき、その愚かさを知り、20年の損失を取り戻すべくいかに時間の質を高めるかを考え、ぐうたらな自分をどれだけ追い込めるかに執着していたのが近年の心境であった。それゆえに、ぬるい構造の職場でのんびりとした人々に囲まれながら他人事のように仕事をする時間が週5日8時間もある生活は、日々焦りばかりが増幅していくような、どうにも耐えられるものではなかった。昨年度はとてももどかしい思いを抱えていた。

 

 もどかしい日々は続いたが4年目には異動できるだろうと希望を胸になんとか我慢をした。 急降下していく労働意欲に気付き、係長に「もうやる気がゼロです」と直接訴えながら、3月までの辛抱だと己に言い聞かせ、なんとか耐えた。

 しかし異動は叶いませんでした、と。

 

 4月に入り、これまでと同じぬるま湯へ浸かりながら、自分の人生を他者に委ねていたこと自体が変わらず愚かであったと痛感した。

 3月までの私は、生活環境に不満を抱きながらもそれを自ら解決しようとするのではなく、組織の人事を握る連中の裁量に己の運命の全てを預けていた。結果、何も変わらなかった。

 自らの環境に自らが納得いっていないのは、自らの望む環境を自ら築こうとしていないからなのでは、と思った。つまり、自分の人生の運命を顔も名前も知らない人事の適当な判断に任せていた自分の選択が誤りであったと判断した。

 

 そこで4月、自分がいま属しているコミュニティの空気をなんとか変えられないかと、以前とは違う行動指針を持って労働へ臨んだ。具体的に記すと、過去1年の間に抱えた不満を係長に直談判し、改善を提案するところから4月は始まった。

 しかしはっきりいってあんまり意味がないなと一ヶ月で悟りました、と。

 

 労働について最近よく思うのが、いかに内発的なモチベーションによって自分ごととして仕事できるかって結構重要だよな、ということ。基本的には多くの人が「生活のため」とかなんとかと、外発的な要因によって働かされているのが現状であるようにみえる。ただ、上でも少し触れたが週5日8時間もの時間を不満を抱えながら過ごすのって限りある人生においてものすごくもったいないことであるし、逆に言うとこの週5日8時間を内発的モチベーションによって動ければ毎日の幸福度が一気に向上するのだから、その状態を理想として目指しても良いよね、自発的に労働に当たっても良いよね、そんな意識を強く抱くようになった。要するに仕事に限らず自発的な時間をどれだけ増やせるかということに尽きるのだけど、ドラクエやってる感覚で仕事もできたら最強じゃないですか。

 それで、行動要因が内発的であるか否かを考えたとき、目的意識もなく就職したいまの職場で働くことは間違いなく否に分類されますよね、と。

 

 そんなようなことをぐるぐると考えているうちに、さっさと職を転じるべきなのでは?という段階にいま至っている。実際にどうするかはさておき、自分が労働に対してどう向き合っていくのかという課題は働き始めてからずっと抱えていたのだが、ようやく方向性が見えてきたのはひとつの進歩と捉えたい。

 

 仕事は一つのところで定年まで勤め上げるべき、みたいな近代的べき論が蔓延っている節は未だあるため、転職を考えていることに対し今後周囲からマイナス意見を受けることもあるかもしれないけど、自分の生きる道は自分で舵を切っていきたいから、自分がこれからどんな地図を描いていきたいのかを見失わないようにしたい。

 でも根本的にはめんどくさがりなんだよな、私は。

やさしくなりたい

 気が狂いそう。やさしい歌が好きで、あぁあなたにも聞かせたい。

 

 しかしだ、自分が好きなやさしい歌をあなたに聞かせたいという想いは、独りよがりで、自己中心的で、エゴイスティックで、あなたのことを考えているようで本質的にはあなたのことなんてこれっぽっちも考えていない、何一つやさしくないものなのではないか。

 

 私が聞かせてあげることであなたはやさしい歌を知ることができるだろうし、私が聞かせてあげたやさしい歌であなたは何か救われるようなことがあるかもしれない。でも、私は、あなたにやさしい歌を聴いてほしいと純度100%の想いを抱いているわけではなく、その奥に、やさしい歌を知っている私、やさしい歌を聴かせてあげた私を、あなたに押し売り、好感度という名の見返りを求めてしまっているような気がする。

 

 やさしい歌を片手に、あなたに近づこうだなんて気が狂っているし、やさしい歌の優しさは、歌の優しさでしかなく、決して私の優しさではない。

 

 人にやさしくしたいが、その優しさの奥に相手からの見返りを求めるような自分がいるような気がして、それって本当の優しさなのだろうかと考えてしまい、優しいの意味がわからなくなり、結局何もしないのが一番優しいのではないかと、何も行動せずに終わることがよくある。

 

 例えば、これは優しさとは少し違うが、「あなたが好きです」と相手に言葉で直接伝えることは、多くの場合「私はあなたのことが好きだからあなたも私のことを好いてほしいし、できればずっと一緒にいてほしい」という自分本位な意図があるだろう。

 ただあなたのことが好きだという純粋な想いにエゴが入り混じり、その想いの純度が、滝壺に吸い込まれるかのように急降下してしまう、そんな気がしてくる。思いやりを持って動いたはずの自らの行動にそのエゴを感じ取ってしまったとき、足場にしていた優しさは崩れ落ち、優しさの奈落へと放り込まれる。

 好きなひとを大切に想う気持ちは優しさだが、その気持ちを言動によって表面的に示す行為に優しさの影を見てしまい、優しい行動はやさしくないだろうと思い違えてしまう。

 結果、冷たかったり、攻撃的であったりすることの方が、却って優しいのではないかと、歪んだ思考を持つようになってしまう。

 あるいは、その先に自分への還元を求めた相手への思いやりを抱いてしまっている自分に嫌気がさし、真逆のことをすることでバランスを保とうと明らかにやさしくない言動をとってしまうことがある。

 

 自己というのは、他者の対比として存在する。相手がいるから自分がいるし、他者の存在を強く感じれば感じるほど、自己も強く表れてくる。

 だから、相手に好意を抱けば抱くほど、相手への思いが強ければ強いほど、自我が出てきてしまうのも仕方がないし、逆に言うと、自我を強く感じてしまうほど、相手のことを想い、相手にやさしくしたいと考えているのかもしれない。優しさというやつは、そういうものなのかもしれない。

 私が人にやさしくできないのは、結局のところ、自分のことを好きでないからなのかもしれない。自分に優しくできない人間は、他人に優しくすることができないが、他人に優しくできないことで余計自己嫌悪に苛まれてしまうから、他人に優しくできないループから一向に抜け出すことができない。

 

 想いは言葉にしなければ伝わらないし、人にはたくさん感謝をした方がいいのだろうが、そのストレートな感情表現はかなり西洋的で、歴史的に”個人”を求め続けてきた西洋人の思想がやはり軸にあると思う。

 福沢諭吉が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した、という逸話があるが、遠回りで文脈重視で曖昧な感情表現というのは東洋的な美しさを感じさせるし、西洋的な感情表現を肯定する一方で、東洋らしい抽象的な優しさの形を見つけられたら楽なのにな、と思う。

 

 好きな人たちには幸せでいてほしいし、好きな人たちと接するときは優しさを持っていたい。でも、好きな人たちが幸せでいるための要素に「私」が入っている必要はないし、そもそも私なんかが人と接すること自体が優しくないことなのでは、時にはそんなことすら考えてしまう。誰にも気づかれないところで人にやさしくしていたい、そんな思いがある。

 人との関係は基本的にインタラクティブなものであるから、自我を隠そうなんて思いがなによりも自己中心的であり、おそらく根本的な考え方が歪んでいるのだと思う。多分、私はこの先もきっと人にやさしくすることができない。

 

 気が狂いそうだ。

人と会う頻度がわからない

 世の中ってのは分からない事だらけだが、多くの人が分からないような、わからないが共通認知されているようなことってのは、すでに誰かがなんらかの答えを見つけていて、インターネットでも調べりゃそんな答えが一つ二つと出てくるもんだ。

 それよりもだ、自分が分かった気になっていて、あえて他人に確認など取らないもの、こっちの方が実はよく分かっていないことなんじゃないか、というそんな思いに駆られることもある。

 例えば、有名なところでトイレの作法、作法というほどお固いことではないが、ようは「尻を拭いた後の紙を目視確認するかどうか」というあれだ。なんとなく自分の中でルール化はされてるけど、一般的にそれが多数派かどうかは知らないし、別に知らなくても問題ないからあえて確認は取らない、そう、まさにこれ。ザッツ灯台下暗し。他人が尻を拭いた後の紙の始末手順なんてわからないし、興味もない、でも自分は多数派だろう、そんなことをみんな思っているはずだが、そう思っているかどうかも確認したことないからわからないし、別に興味もない。ちなみに私は確認した後「うっわ…」と呟くまでがデフォ、たぶん多数派、圧倒的マジョリティー、壁を建設してやる。

 

 このようなことを飲みの席なんかで「○○について僕はこうなんだけど君どうしてる?」と訊くなどして、話題に上げて多数派か少数派かを決着づけるのが割と好きなのだが、まあ自分が自然当然としていることにわざわざ疑問なぞ持たないから、この類いの問いのストックも全くなく、“たぶん多数派論争”を勃発させる機会も滅多にない。こういう底の浅さが自分の一番ダメなところかもしれん、と底の浅い反省をしながらも、いくらか考えてみたがやはり特に思いつかず、議題、思いついたら教えてくれ。

 

 そんなこんなで2017年、正月の新鮮な空気とともに、熱々のお餅を頬張りながら、今年はいろんな人と会って話がしたいな〜などとぼんやり漠然とした目標をあっけらかんと立てたのもつかの間、すでに時は2月である。

 この一ヶ月、仕事中はもちろん人との関わりはあるが、昼休みに職員間で一緒に食事へ行くこともしなけりゃ、仕事終わりに飲みに行くなんて事もなく、早い話プライベートでの人付き合いはなし、ついに明日、今年初めて人と会合する予定が入っている。年末には人と遊んだ日があったから、交友は一ヶ月振りか〜なんて考えていて思った、ついに議題を見つけた、人は一体どれくらいのペースで人と会っているのだろうか、と。

 

 私は数年前まで高校生だったが、学校へ通っている頃なんてのは学校が遊び場みたいなもので、毎日同級生と会うし、しょうもない話かなんかをしてヘラヘラしていて、謂わば週5で遊んでいるような状態、あれが多くの人にとって精神的に相当な苦痛を強いるものであり、一つの狭きコミュニティに閉じ込められ、交友を強制させられる、“いじめ”なんて現象だって起きてしまうあの拷問まがいの環境を経験したから分かるが、おそらく週5で人に会うのは精神衛生上よろしくない。

 

 就職した後、地元を離れあまり知人のいない東京へ着たこともあり、人と会うペースは激減、1〜2ヶ月は仕事以外で人と会わないなんてことがザラにあるが、私の感覚としてはこれが負担もなく楽しく人付き合いをできる最適なペースであると気付いた。久々に誰かと話がしたいな、と思った時、この人は半年前に会ったばかりだから別の人にするか、なんてことがよくある。仲が良い人物でも年3回も会えば十分だ、と思っている。当然、LINEなんて、基本起動しない。

 

 私が経験している“人と会うスパン”はこの2種類のみであり、もちろん後者が多数派であり正解であると信じて疑わなかったのだが、よくよく考えてみると、例えば、どうやら恋人ってのは毎日連絡を取り合うという話を聞いたことがある。なんだそれ、地獄か?ともに地獄を歩んで行く関係性のことを恋人と称すのか?さては吊り橋効果的なやつなのか?などと疑問が次々と浮上し、いや、この類いのことは私には無縁だし考えるだけ無駄だと一蹴しようとしたが、さて、そうなると、恋人なる存在と毎日のように連絡を取る人らは、果たして友人とはどのペースで連絡なり遊ぶなりをしているのだろうか、と、やはり根本的に人は人とどれほどの頻度で会っているのだろうか、が疑問として生じてくる。

 

 私自身、実際のところ去年の交友状況はどうだったか、思い出せる限り思い出してみると、おそらく人と食事に行ったり遊びに行ったりというのは16〜7回ほど行ったと思われる。人と会うのが目的でなく、参加したイベント事でTwitterの人と会ってどうこうみたいな案件もカウントしてこの回数だ。

 しかし、あまり人と連絡を取らない部類だと思っていた私だが、こうやって数えてみると月平均1.5回ほどはプライベートな時間に人と会って過ごしているわけだ。あれ、以外と多くない?意外と多いとなると、職場の人間からの「休日どうやって過ごしてるの?」という問いに対し「ひとりで遊びに行くことが多いですね〜」と返答してきたことが誤った対応であったということになりかねない。

 

 月一以上の頻度で人と会ってるの、そこそこ多いじゃんという判断は多数派の基準なのだろうか。この辺の世の価値観は一体全体どうなっているのだろうか。

 人と会う頻度が分からない。

 

 そんなことを考えながら、昔の先輩に数年ぶりに会ってきます。やった〜。