無自覚活動記録

幸せになりたい

アホな目標を設定するとやる気が出てくる

 今年に入り、将来についての漠然とした不安が、頭の上から地へ押し付けるかのように、重く重くのしかかってくる、そんな感覚がある。頭を押さえつけられてしまっているため、視線を上に向けることもできなく、前を向くのも精一杯、目に付くのは自分の足下ばかりだ。

 

 足下を見つめる、いまの自分の状況に至るまでの経緯を振り返ると、本当にろくでもない生活を送ってきていたな、という思いばかりが浮かび上がる。

 幼少期から目標を立てるのが苦手で、小学生の頃からいまのいままで遠い将来のことなんて考えたこともなく「将来の夢を書きましょう」といった授業の際は、渡された用紙を埋めることすらできなかった。日々の生活ですら、消化試合のように覇気なく過ごしていたため、例えば「テストの点数で学年10番以内に入る」「部活の大会で入賞する」といった短期的な目標すらなかった。なにか打ち込むような物事が一切なく、なんとなく学校に通い、なんとなく授業を受け、なんとなく同級生とふれあい、なんとなく部活に励み、世界に関心を示さず、意思という意思も存在しないまま、無駄に毎日を過ごしていた。何かに熱中している人たちを羨ましく思いながらも、どこか遥か遠い、自分には手の届かない存在のように感じた。

 

 いまなお、目標、将来の夢、自分のしたいこと、こういったものを掲げるのが容易でない。自分のやりたいことがあっても、これまで何もしてこなかった自分、何も培ってこなかった自分が、この先に何かできるわけないだろ、そんな考えが先行してしまう。

 

 そんなこともあって、近頃は人に会う機会があれば将来をどう考えているか、積極的に訊いてみたりする。訊くと、大体ちゃんとした考えが返ってくる。多くの人が、将来について何らかの考えを持っていることを実感し、劣等感が更に増す。参考にしようと人に訊いてみているものの、やはり将来の展望というのはその人のバックグラウンドに根付いているため、これまでの22年で何も培ってきていない自分に今更なにができるんだ…と思考が元に戻ってきてしまう。

 世の中の人、みんな考えてるし、実行してるし、なんというか、ちゃんと生きてる。自分が本当にしょうもない人間だなと、みじめな気持ちになる。

 

 そんな中身空っぽな自分を顧みて、なんとか少しでも中身を詰めようと、最近本を読むようになった。闇雲に本を読んでいく中で、人間の意識とか存在とか、人と人とのつながりや社会のあり方とか、人間的な分野に面白みを感じることが分かってきた。ほんのわずかに教養を蓄積しただけだが、自分の関心の方向性が分かり、そこから自分の目標も定まった。

 

 【人間を全クリする】

 

 これ。いまの私はこれを、人生の目標にして生きていきたいと考えている。めっちゃバカっぽい。

 

 この目標は、インターネットで目にした「死を全クリしてから、死に挑みたい」といった旨の意見をオマージュしているのだが、これで気付いたのは「アホっぽい目標は設定しやすいし、それだけでなんかウケるし、ウケるからやる気が出る」ということだ。

 

 例えばだ。毎日コツコツと生きるのは大変である。起きるのがツラい朝、混雑した通勤電車、面白みのないルーチンワーク、嫌な上司、客からの苦情、長い残業、帰宅して食事をすればもう寝る時間、寝てしまえばすぐさま嫌な朝が来る、そんな毎日。自ら生を放棄したくなることもあるかもしれない。【毎日を精一杯生きる】という目標は困難だ。

 では、この目標をバカにしてみよう。昨晩読んだ本に「天の川銀河アンドロメダ銀河は約45億年後に衝突する」と記載していた。これを読み私は「うわっ、銀河同士が衝突する瞬間観てみたすぎる」と思った。ここで目標を立てる。

 

 【45億年先まで生き延びる】

 

 真面目に考えればアホだ。しかし、この目標に込められたロマンを感じ取ってほしい。【毎日を精一杯生きる】より【45億年先まで生き延びる】の方がワクワクしてこないだろうか?後者の目標を立てている人間の方が人生を楽しんでいる感じがしてこないだろうか。

 

 この調子でいくと“全クリ”というワードは非常に便利である。なんでもすぐさまバカにできる。

 

 「関心のある分野を学びたい」からではなく「学生を全クリする」ために受験勉強に励む。当然、学生を全クリするためには小中高大学と確実に進まなければならないだろう。また、受験勉強だけでなく、進学後も勉学にもしっかり励み、部活やサークル、学校行事などにも精を出していかないと“全クリ”には達せないだろう。

 

 「希望に沿った仕事をするため」ではなく「就活を全クリする」ために就活をする。ちょっと本質を見失っている気もするが、大切なのは遊び心である。この目標を立てた人は、多分面接官のことをジムリーダーと呼ぶだろうし、内定のことをバッジと呼ぶだろうし、入社式のことを殿堂入りと称すだろう。必ずしも内定獲得が絶対命題ではないため、お祈りメールにも屈しない。それもまた、就活全クリに向けたアイテムの一つなのだ。

 

 平凡なサラリーマン全クリ。満員電車内でのかわしスキルの上達、パワーポイントでめっちゃいい資料を手際よく作る、稀に会議で決定的な発言をする、昼食代を500円以内に抑える裏技の取得等々をクリアした後、上司あるいは会社の不正を糾弾でもすればよいだろうか。

 

 上司の全クリ。不正に気付いた部下の後始末を巧くやる。

 

 契約社員の全クリ。契約満期の際、同僚にめちゃめちゃ惜しまれ、その後も職場の飲み会に度々誘われるようになる。上司の不正は見なかったことにする。

 

 

 UHA味覚糖社員の全クリ。日本人の主食をごはんからグミへ移行させる。

 

 落合陽一の全クリ。日本人の主食をごはんからつぶグミへ移行させる。

 

 つぶグミの全クリ。ソーダ味を生産中止し、ピンクのパッケージ一本で売り込まれる。 

 

 シゲキックスの全クリ。グミ界王者の座をこの先も譲らない。

 

 

 もう何がなんだか分からなくなってきました。

 あなたは何を全クリしたくて人生を送っているでしょうか。

 私は、アホなこと言ってないで現実をしっかり見て堅実に生きた方がいいと思います。

春は憂鬱、せめて春眠は暁を覚えないでくれ

 年度が替わる。

 

 3月までの中学三年生は4月から高校へ通うようになり、「俺たちはこの先も友だちだ」と同級生と卒業式で誓い合うも、進学先でもっとおもしろい人と出逢い、あれよと旧友のことなど忘れてしまう、そんなことがあるかもしれない。

 3月までの高校三年生は地元を離れ東京の大学へ通うようになり、地元を離れることが原因で泣く泣く恋人と別離、落ち込んでいるのもつかの間、新天地でより良い人と巡り会う、そんなことがあるかもしれない。あるいは連日のコンパで心を汚され「女を抱かずには夜は寝られねえ」が口癖となる、そんなこともあるかもしれない。

 

 出会いは偶然、環境は無限、この世は可能性と言う名の無情で溢れている。いまある生活がベストとは限らない、そんなことを突きつけてくるのが春だったりする。

 

 私のような社会人の場合も、異動で所属部署が替わったり、自身に異動がなくとも他部署から異動してくる人がいたり、異動して出ていく人がいたり、新任職員が入ってくることがあったり。人事以外にも、業務分担ががらりと替わったり、仕事の方針に変化が出たり。

 

 兎にも角にも春になると、身を包む環境が変わるケースは圧倒的に多い。この変化を、新たな生活のスタートと張り切って前向きになるか、また一からルーティンを形成しなければならないと億劫になるか、捉え方は人様々であるが、環境が変わるとその人自身もなにか替わらざるを得なくなるのは誰もが同じであろう。

 言うまでもないが、上記の二択でいくと私は当然後者、環境の変化がめんどくさい、新たな何かを強要させられたくない、そっち側の人間。というか、世の人全員新生活面倒側の人間じゃないんですか?環境を無理矢理替えるの、やめにしませんか?

 

 

 これはもう個人的な話。私は異動こそなかったが、4月以降から任される仕事が大きく替わるため、また小難しいことをゼロから覚えなければならない羽目になっている。どうにか平成28年度を食いとどめようと必死に説得こそしたが、「もう俺の居場所はここにはない。誰も俺を求めてはいない。時の流れには逆らえない。」と頑に主張する平成28年度の意思を曲げることはできず、当然のように4月到来、明日からより億劫になった労働に尽力しなければいけない。

 思えば、昨年の4月。このときも与えられた業務量が大きく増えたが、このときは何か目新しく覚えるというよりは、前年度に少しやらされていたことをメインとして与えられる、といった規模が大きくなるイメージに近かった。それでも最初の頃はミスを多発していたし、元々の要領の悪さもあってか、年度末が近づいてきた頃にようやく手慣れてきた感じだった。ようやく手慣れてきて、落ち着いて段取りをくめるようになってきたと思ったら、取り上げられてしまった。

 

 新たなことに自ら取り組むことは総じて楽しいものだが、新たなことをやらされるのは恐怖がつきまとうように思える。その差はミスの許容範囲。自分でやりたくてやることであれば、失敗だったり、うまくいかなかったり、というようなことも含めて面白いものである。しかし、“やらされる”ということは、最初は教えるけど早く覚えろ、早く慣れろ、早く一人前になれ、早く正確にできるようにならないと周りが迷惑する、といったプレッシャーが伴う。ミスに上限がある。心の中のハートマン軍曹に怒声を浴びせられる。

 

 いや、もう、単刀直入に言うと働きたくないだけなのだけど。昨年のミスを多発していた時期、ストレスで慢性的な頭痛に悩まされたこともあり、また同じことを繰り返してしまうのかと思うと、生き地獄としか思えない。春は憂鬱、労働怠慢を許さず。

 

 

 “仕事”という、社会からやらされていることに対して、世の人はどう割り切っているのか。そもそも人々は“仕事”をどう定義づけ、どんな思いで労働にあたっているのか。たとえ、やりたくて始めた仕事でも、仕事にすることで“やらされること”に成り下がってしまうのだろうか。

 仕事を怖れている私は今年で22歳であるが、一般的に見れば大学4年生で就活に励む年齢でもある。就活生は「仕事」「働くこと」について、どう解釈しているのだろう。

 私自身は、とりあえず親元を離れたい、地元を離れたい、という想いに100%の重きを置いて就職してしまったため、“仕事”に対する自分なりの定義付けも、いまの仕事に対する想いもないままに、ひとまず2年は過ぎてしまった。これでいいのか、なんとなく何か漠然とした世の流れに身を委ねるままに労働に励んでいていいのか、仕事をしているときは与えられたことに意見など持たず言われるがままに達成に向けて動くゾンビと化せばいいのか。いまの私はそれを良しと思うことはできないし、仕方がないことだと受け入れることもできない。労働のあり方が課題として明るみになってきている昨今でもあるが、社会としてではなく、まず自分なりの“仕事”の定義付けをはっきりとさせたい。

 繰り返しになるが、就活生も多い22歳という年齢は、時期的にも将来について具体的に考えるようなタイミングであると思う。自分はこの先どう生きていきたいのだろう。この先のことなんて何も見えないけど、いまの自分が目指そうとしているポイントを明確にして、意思を持って生活を送れればと思う。

 「時の流れには逆らえない」と言い残して平成28年度は去っていったが、僕は社会という大きすぎる流れに意思を持って臨みたい。社会の毒素になって適当に排出されてやる。新型毒素ことゆとり世代が社会にどんな影響を与えるかはまだ知る由もないが、ゆとり世代として、適当で気楽に世の中を泳いでいければいいと思う。こんな感じで平成29年度はやっていきたいと考えてます。

 

 

 年度が替わる。

 

 出会いは偶然、環境は無限、この世は可能性と言う名の無情で溢れている。いまある生活がベストとは限らない、そんなことを突きつけてくる春が今年もやってくる。

 

 何かとしんどいことが多いと思うけど、変遷する環境や時間に自分を見失わないよう、また一年頑張りましょうね。実に憂鬱だ。

 

合コン・ドリーミング

 合コンとは「合同コンパ」の略で、本来は二つ以上のグループが合同でするコンパを意味するが、多くは男性と女性のグループが交流を持つ会のことをさす。合コンの多くは男女それぞれ同数で行われる。仕事やサークル、旧友といった異性の知人(友人)を発端にし、双方が人数を調整して行うものが多い。合コンはあくまで男女が知り合うためのキッカケであり、その後の個人的交際を目的にして行われる(中にはその場の飲み会だけを楽しむ目的のものもある)。

引用元:合コン(ごうこん) - 日本語俗語辞書

 

 ブログを書きたい思いが湧き出てきたため、インターネットで安易にウケがちなネタを臆面もなく探していたらこれだ。私はもう「日本語俗語辞書」なるサイトが気になって仕方がない。一体どんな言葉が載っているんだ。最近だとアレか?“モグラ女子”とか載ってんのか?「ファッションモデルとして活躍する傍らグラビアアイドルとしても活動する女性タレントのこと」みたいなことが書かれているのか?「馬場ふみか内田理央はお前らに譲ってやる。ただし大澤玲美には絶対手を出すな、俺の女だ。でも泉里香は一緒に楽しもうな。」みたいな私欲に溺れた解説が書かれているのか?などと予測を立てながら調べてみたら載っていなかった。“イタ電“とか“ワンレンブス“とか載ってた。

 

 そんなわけで合コンである。日本語俗語辞書によると“合コン”という言葉は1980年代後半辺りから使われているらしい。私自身の経験はないが、発祥から30年経ったいまなお知人だったりSNSだったりを通して合コンと称されるイベントが実施されていることが伺える。1990年代初頭に頭角を現したポケベルが完全に廃れ、携帯電話を経由し、人々の手には一人一台のタッチ画面式小型PCが行き渡るこの2017年にだ、80年代後半に登場した合コンは、合コンのまま現代に存在しているというのだ。いや、実際どうなんスか合コンて、私の頭の中ではそんな思いが巡る。

 

 正直、上の引用文を読んで「お、地獄だな」と思った。集まった人々の半分は知らない人、しかも異性。異性と知り合うことを目的に人が集う、これだけで気持ちが悪い。“人“、“個人“より“性“が求められる、あるいは求める状況があまり好きになれない。“性”だけを求めるのならまあいいやとなるのだが、“性”を前提とした上で中途半端に“個”も求められる、これが気持ち悪い。逆だろ、と。まず人と接する上でみるべきは“人“であって“性“は外的要素の一つだろ、と。そんなことを思うのだが、今回はややこしい話をしたいわけではないのでこの話題はさておき。

 

 私はこの地獄に誘われるような玉ではないし、主催するような玉でもない。自然にしていれば、一生縁のないはずのイベントである。しかし、先輩に連れられて行ったパブで先輩がナンパした女に、なぜか私がホテルへ連行されそうになるという体験に遭い「異性との最大の接触は握手」という鉄板フレーズが使えなくなって以来「人生はなにが起こるか分からない。人生は恐ろしい。」という教訓が身に付いているため、万が一この更なる地獄へ招かれてしまった場合の対策も練っておく必要があるのだ。

 

 まず乗り越えなければならない関門。初対面の人間との接触だ。これに関しては実は自信がある。元来、人見知り臆病シャイボーイな私であるが、ここ半年ほどで自分の中の意識に変化があり、いまでは一対一の会話なら体力が続く限りであれば多分無限に話し続けられるという妙な自負がある。が、ここで問題なのは私が得意とし好んでいるのはあくまで「一対一での会話」であり、これが複数人、みんなでワイワイな状況になると急激に弱体化してしまう。このときの私は、顔が濡れて力が出ないときのアンパンマンの気持ちが痛いほど分かる。

 私は当り障りのない会話というのが実に苦手だ。大勢で、しかも半分は互いのことをよく知らない状況となると、まず確実に当り障りのない会話が繰り広げられ、その当り障りのない話に関心のあるようなリアクションを強いられ、また当り障りのないレスポンスをする。この不毛なジャブの打ち合いが実に気を遣うし、そのくせ時間を無駄にしてしまっている気すらする。

 飲みの場だけでなく、日常的に頻繁に行われるジャブの打ち合いのような会話というのは、どこかその場しのぎの間をつなぐためだけに行われているようで、その不毛さをいつも考えてしまう。ジャブを打ち合うくらいなら、ジャブを打ち合う不毛さについて考えることを優先してしまうのだ。

 当り障りのない会話というのは、そのときの相手が誰でも同じような方向で成立してしまう状況に陥りがちで、そこに“個人が死んだ状態“を感じてしまう。私は人と接する機会があまりないため、一回の人との会話をかなり重く認識しがちであり、いまこの“とき”にその“人”と会っているという意識を強く持ち、できる限りその人と向き合って時間を共有したいという姿勢をいつも取る。これが一対一でしか人と話せない所以であり、当り障りのない会話を苦手とする所以でもある。だから、基本的にアンパンチはとどめの一撃でしか繰り出さないし、物語序盤の馴れ合いのような場面ではあえて顔を濡らしておくアンパンマンにやはり親近感を覚えるのである。弱パンチ感覚でアンパンチ連発してたらパワーバランス崩れるしな。

 きっと、半分は初対面である男女比の揃った飲みの席できっと私はそのようなことを考えるのだろう。

 

 

 「人がいっぱいいて力が出ない…」

 

 ジャムおじさんからの救いの一手も望めない合コンという場に私は戸惑う。そこで私を「人数合わせだから、いてくれればそれでいいから」などという謳い文句でこの地獄へと手招いた張本人であるマスオカくんが声を出す。

 

 「じゃあ、とりあえず飲み物頼みましょうか〜!!」

 

 マスオカくんは良いヤツだ。思い返せば、いつだって彼は率先して仕切り役を買って出ていた。目立ちたがりやなのだろう。こういった仕切り役の人間を観ていると、世間でコミュニケーション能力が高いとされるのはやはり「当り障りのないやり取りが巧い」ことなのだと、いつも思う。ライトな嘘はお手の物、質問に対し思いつきで返答する。こういったことが私にはできない。マスオカくんは凄い。

 

 「オマエも生でいい?」

 

 私がボーッとしているとドリンクオーダーの確認が回ってきた。

 

 「あ、いや、ハイボールで……」

 「あ、そう。じゃあ生ビール7つとハイボール1つで。」

 

 そう、いつもこうだ。私はビールを飲まないので、いつもハイボールを頼む。すると毎回絶対に浮くのだ。

 案の定、前に着席していた女が、普段は使わないであろう喉の辺りの筋肉に力を入れたような上げ調子の声で訊いてくる。

 

 「ビール飲めないんですかぁ?」

 

 私はビールを飲めないのではなく、理由もなくただなんとなく口にしていないだけなので、飲めないと言うと若干の嘘になる。嘘の付けない私は答えに困窮し、こう返答する。

 

 「えっ…いやっ……まあ……そう……ですね……」

 

 これだ。これが、私とマスオカくんの違いだ。ライトな嘘を付けない。

 適当に「どうしても味がダメでね〜」とかあしらっておけばいいものの、それができない。かといって「なんとなく飲まないんですよ」などと正直に答えたら相手を困らせるのではないかと変に気を遣ってしまう。「序盤からその声じゃ明日喉回り筋肉痛になりますよ?」と気の効いた素敵フレーズも繰り出せない。その結果が「まあ……そう……ですね………」だ。

 完全に顔が濡れている。冷や汗だ。パン生地が濡れ落ちて、中からあんこが染み出てきてしまっている。顔が真っ黒だ、これでは準バイキンマンだ。あぁ、力が出ない。

 

 ドリンクが運ばれ、乾杯の音頭を皮切りに、各々の自己紹介が始まる。身をわきまえて隅の席にひっそりと座っている私の出番は恐らく最後だ。話す内容を考える時間がある…と安心したのもつかの間、その分クオリティを求められる最悪のポジションであることを瞬時に察した。

 突如訪れた災いに、慌てふためく脳内。すぐさま体内の赤血球に緊急体制の指示が出る。地震だ、火事だ、の騒ぎではない。私はこれから自己紹介でウケなければいけないのだ。見ず知らずの異性数名に対し、ウケなければいけない。スベると必要以上の文句を陰で叩かれる。線路立ち入りどころの騒ぎではないのだ。どれだけ周りが「それ、こんなに大事にする必要あるか?」と思っても、叩くやつは徹底的に叩くのだ。私もこの自己紹介でスベろうものなら、あの女たちの間で飽きるまでネタにされ、また、友人、家族、職場の人らへとネタとして伝達され、一部の地域で「自己紹介でスベッた男」として名を馳せることになってしまうのだ。

 私が一人パニックに陥っていることなどつゆ知らず、マスオカくんは軽快なトークで自己紹介を済ませる。後の雑談に続くよう、多くは語らないが、複数の引出しを見せつつ、軽い笑いも含ませる。マスオカくん、君は一体何者なんだ。そのトーク技術は義務教育で習ってきたのかい?君の通っていた学校は国数英理社漫談のカリキュラムを採用していたのかい?おいおい冗談だろ、それじゃあ誰も学級委員をやりたがらないじゃないか。なんでかって?そりゃ、みんなスベる(統べる)のは避けたいからね。

 パニックがパニックを呼ぶ。混乱の沼にみるみる埋もれていると、あれよと私の出番がやってきた。ヤバい、何も考えていない。どうする、どうする。だめだ、間を作ってはいけない。何か、何か言わなければ……。

 

 「…武藤と申します。…あ…あの…こうゆうの苦手なので…え…緊張してます………。」

 

 これだ。これが私とマスオカくんの違いだ。苦手とか、すぐ言ってしまう。

 皆の「え?それだけ??」という表情が私に向けられる。この瞬間、今後この人たちに陰で「モジモジ男」と呼ばれてしまうことが決まった。

 

 「顔が濡れて力が出ないので……………」

 

 心の中でそう呟き、ひとりでクスッと笑った。

 

 これだ。これが私とマスオカくんの違いだ。自分の頭の中であれこれ考えて、一人でにニヤつく。マスオカくんはひとりでニヤつくことなどないのだ。あれこれ考える前にすべて口にしてしまうのだ。

 

 その後は、もう誰も私の相手などせず、私も干渉しないようにマスオカくんを見つめながら、その立ち回りの巧さに感心する。途中、女性陣によって繰り広げられるトイレ会議にて「あのモジ男なんなの?(笑)」「絶対ドーテーだよね(笑)ウケるんだけど(笑)」などと、早速陰でネタにされていることなど微塵にも思わず、私の視線と興味はマスオカくん一点に集中していた。

 

 ひとしきり盛り上がり、皆が二次会へ行こうとする。

 

 「パン工場が遠いので…」

 

 私一人が早々に帰路につこうとする。もちろん止めようとする者など誰もいない。家をパン工場と称したことにツッコむ者もいない。そもそもアンパンマンのくだりは私の頭の中でのみ存在しているものだ。

 

 居心地の悪さからいち早く抜け出したい。駅へ向かうため皆と反対側へ歩き出そうとしたとき、マスオカくんが一人駆け寄ってきた。

 

 「無理させちゃってゴメンな。」

 

 これだ。これが私とマスオカくんの違いだ。マスオカくんはノリが軽いようで、実は皆をしっかり観ている。その優しさはまさにジャムおじさんのようだった。独りよがりな私と違って、目配りが細かく、優しさに溢れていて、カッコいいのだ。

 

 「ううん、大丈夫。こっちこそゴメンね、盛り下げちゃって。」

 

 俯きながら謝ると、マスオカくんはこう言い残した。

 

 「今度は二人で飲みに行こうな。」

 

 マスオカくんは私が一対一でならちゃんと話ができることを知っていたのだ。二次会組へと戻っていくマスオカくんの背中がやけに大きく見えた。

 

 「マスオカくんだったら…僕のアンパンチ受け止めてくれるかな……」

 

 帰りの電車に乗り込んだ。ガラスに映る私の表情には笑みがこぼれていた。

 

 

 こんな合コンだったら行ってみたい。

人と会う頻度がわからない

 世の中ってのは分からない事だらけだが、多くの人が分からないような、わからないが共通認知されているようなことってのは、すでに誰かがなんらかの答えを見つけていて、インターネットでも調べりゃそんな答えが一つ二つと出てくるもんだ。

 それよりもだ、自分が分かった気になっていて、あえて他人に確認など取らないもの、こっちの方が実はよく分かっていないことなんじゃないか、というそんな思いに駆られることもある。

 例えば、有名なところでトイレの作法、作法というほどお固いことではないが、ようは「尻を拭いた後の紙を目視確認するかどうか」というあれだ。なんとなく自分の中でルール化はされてるけど、一般的にそれが多数派かどうかは知らないし、別に知らなくても問題ないからあえて確認は取らない、そう、まさにこれ。ザッツ灯台下暗し。他人が尻を拭いた後の紙の始末手順なんてわからないし、興味もない、でも自分は多数派だろう、そんなことをみんな思っているはずだが、そう思っているかどうかも確認したことないからわからないし、別に興味もない。ちなみに私は確認した後「うっわ…」と呟くまでがデフォ、たぶん多数派、圧倒的マジョリティー、壁を建設してやる。

 

 このようなことを飲みの席なんかで「○○について僕はこうなんだけど君どうしてる?」と訊くなどして、話題に上げて多数派か少数派かを決着づけるのが割と好きなのだが、まあ自分が自然当然としていることにわざわざ疑問なぞ持たないから、この類いの問いのストックも全くなく、“たぶん多数派論争”を勃発させる機会も滅多にない。こういう底の浅さが自分の一番ダメなところかもしれん、と底の浅い反省をしながらも、いくらか考えてみたがやはり特に思いつかず、議題、思いついたら教えてくれ。

 

 そんなこんなで2017年、正月の新鮮な空気とともに、熱々のお餅を頬張りながら、今年はいろんな人と会って話がしたいな〜などとぼんやり漠然とした目標をあっけらかんと立てたのもつかの間、すでに時は2月である。

 この一ヶ月、仕事中はもちろん人との関わりはあるが、昼休みに職員間で一緒に食事へ行くこともしなけりゃ、仕事終わりに飲みに行くなんて事もなく、早い話プライベートでの人付き合いはなし、ついに明日、今年初めて人と会合する予定が入っている。年末には人と遊んだ日があったから、交友は一ヶ月振りか〜なんて考えていて思った、ついに議題を見つけた、人は一体どれくらいのペースで人と会っているのだろうか、と。

 

 私は数年前まで高校生だったが、学校へ通っている頃なんてのは学校が遊び場みたいなもので、毎日同級生と会うし、しょうもない話かなんかをしてヘラヘラしていて、謂わば週5で遊んでいるような状態、あれが多くの人にとって精神的に相当な苦痛を強いるものであり、一つの狭きコミュニティに閉じ込められ、交友を強制させられる、“いじめ”なんて現象だって起きてしまうあの拷問まがいの環境を経験したから分かるが、おそらく週5で人に会うのは精神衛生上よろしくない。

 

 就職した後、地元を離れあまり知人のいない東京へ着たこともあり、人と会うペースは激減、1〜2ヶ月は仕事以外で人と会わないなんてことがザラにあるが、私の感覚としてはこれが負担もなく楽しく人付き合いをできる最適なペースであると気付いた。久々に誰かと話がしたいな、と思った時、この人は半年前に会ったばかりだから別の人にするか、なんてことがよくある。仲が良い人物でも年3回も会えば十分だ、と思っている。当然、LINEなんて、基本起動しない。

 

 私が経験している“人と会うスパン”はこの2種類のみであり、もちろん後者が多数派であり正解であると信じて疑わなかったのだが、よくよく考えてみると、例えば、どうやら恋人ってのは毎日連絡を取り合うという話を聞いたことがある。なんだそれ、地獄か?ともに地獄を歩んで行く関係性のことを恋人と称すのか?さては吊り橋効果的なやつなのか?などと疑問が次々と浮上し、いや、この類いのことは私には無縁だし考えるだけ無駄だと一蹴しようとしたが、さて、そうなると、恋人なる存在と毎日のように連絡を取る人らは、果たして友人とはどのペースで連絡なり遊ぶなりをしているのだろうか、と、やはり根本的に人は人とどれほどの頻度で会っているのだろうか、が疑問として生じてくる。

 

 私自身、実際のところ去年の交友状況はどうだったか、思い出せる限り思い出してみると、おそらく人と食事に行ったり遊びに行ったりというのは16〜7回ほど行ったと思われる。人と会うのが目的でなく、参加したイベント事でTwitterの人と会ってどうこうみたいな案件もカウントしてこの回数だ。

 しかし、あまり人と連絡を取らない部類だと思っていた私だが、こうやって数えてみると月平均1.5回ほどはプライベートな時間に人と会って過ごしているわけだ。あれ、以外と多くない?意外と多いとなると、職場の人間からの「休日どうやって過ごしてるの?」という問いに対し「ひとりで遊びに行くことが多いですね〜」と返答してきたことが誤った対応であったということになりかねない。

 

 月一以上の頻度で人と会ってるの、そこそこ多いじゃんという判断は多数派の基準なのだろうか。この辺の世の価値観は一体全体どうなっているのだろうか。

 人と会う頻度が分からない。

 

 そんなことを考えながら、昔の先輩に数年ぶりに会ってきます。やった〜。