落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

 人が人を好きになるとき対象のどの面について好意的感情が発生するのかを考えたところで人間は大変な多面性によって社会を生活しており、また、その多面性の中で相反する要素を同時に抱えることも往往にしてある。

 例えば、あなたは好きな人のタイプとして「やさしい人」を公言しており、いまパートナーとなっている人も実に「やさしい人」であるとしよう。ここで記される「やさしい」がなにをどうもって「やさしい」とされるのかは入念な議論の必要性があるが、この際それは大きな問題ではなく、あなたの正義感に基づいたいまのあなたなりのやさしさをイメージしてもらえれば良い。「やさしい」について深く考えようとする試みこそが何より「やさしい」行為とも言えるし、頭で考えたやさしさも実践不可であれば「やさしい」にはならないと批判することが「やさしい」とも言えるが、この場においてその差はやはり大きな問題にはならない。あなたが定めた「やさしい」と同じベクトルを向いた「やさしい人」であるパートナーの方を上回る人間が現れた場合、そこに互換性は生じるかといえばそれは否であろうと、要するにある個人の視点において別の個人は代替不可能な存在にもなり得るだろうと示したかったのだが、もはやそれすらも大した問題にはならないのかもしれない。

 人が人を好きになったとき、対象自体がどんな存在であるかではなく、自分にとって対象がどんな存在であるか、つまりは自分と相手が共有した時間が自分にとって美しいものであるかに起因しているのだと思う。好意的感情は対象が経験と記憶を引き起こすことによって生じるのではないか、と。

 対象は人だけに限らず、例えば好きな色についても同様なことが言えるかもしれない。そして色といえば、あるいはあなたはあることに違和感を抱えているかもしれない。なぜこの文章は青で書かれているのだろうか、青で書かれていることはなんの伏線なのだろうかと。もしあなたがこうした疑問を抱えている場合、その疑問は正しいとも言えるし、間違っているとも言えるのである。この場においてその差は大きな問題にはならないのだが、違和感を抱えるが故に読み進めることをやめてしまうことを防ぐため説明を示そう。私はいまこの文章を赤字で書き進めている。そして投稿直前にフォントを青字に変更しようと考えている。書き進めている現在において、そう考えているだけであるため、青字に変更せず赤字のまま記事を公開するかもしれないし、青字ではなく緑字に変更するかもしれない。あなたがいま青字で書かれた文章を読んでいる場合は私の予定は遂行されたことの証であり、そうでない場合は当初の予定を修正あるいは単に達成できなかったことによる。つまり本記事でどんな文字色を用いられているかは大した問題にはならない。

 好きな色について記そう。人の好きな色なんてどうでもいいと思う者も多いとは思うが、少なくとも友人の好きな色くらいは把握しておくと大変便利である。例えば、その友人にプレゼントを買おうと思ったとき、好きな色を把握しておくと買おうと思った商品に色のバリエーションがあった際に迷わずに済む。些細なことではあるが、プレゼントをもらった者は好きな色をズバリと的中されたら喜びは増すかもしれないし、好きな色を覚えてもらえている事実に嬉しさを感じるかもしれない。ただし、好きな色を選ばなかったとしても、近しい関係性の人物から何らかの贈呈を受ける体験自体がプレゼントをもらう者にとって嬉しいことであると仮定した場合、プレゼントする物が赤であろうと青であろうと大きな問題にはならないのかもしれない。プレゼントする者は代替不可能だが、プレゼントする物は代替可能である。

 私の好きな色は赤である。だからというわけではないが前述のとおり本記事は赤で綴っている。思えば、小学生の頃は水色が好きだった気がするし、戦隊ヒーローで好きなキャラは赤ではなく青だった。小学生の頃は水色が好きだったのは、ランドセルの赤は女子児童が使用するといった刷り込みによる赤に対する抵抗感のせいかもしれず、水色の持つどこか涼しげな爽やかさに憧れていたのかもしれないし、クラスの人気者だったみずきちゃんの名前に似ていたからかもしれない。いま赤が好きなのは、中学高校の頃の部活動のジャージの色が赤だったことによる接触回数の多さのせいかもしれず、高校生の頃にもっぱら青ペンで授業のノートをとっていたことで青に対する嫌悪感が生じてしまったのかもしれず、歳を重ねる毎に訪れるクリスマスシーズンによってサンタコスに萌えを感じるようになったせいなのかもしれない。いずれにしてもそれらの差は気にかけるほどのことではなく、好きな色が赤であろうと青であろうと、本記事で用いられる文字色と同様に大した問題ではない。

 私が赤で書いた文字をあなたは青い文字で読む。色が与える心理的な作用がなんらかの印象変化を与えるかもしれないが、赤で書かれた本記事と青で書かれた本記事の差を知るのは、わざわざコピペして赤に変更して読み直す奇特な者が現れない限りにはおそらく私だけであるため、本記事を読むにあたり文字色は大した問題ではなく、仮に赤字と青字との間に差があったところでやはり問題はないように思う。

 これは好意についての記述であり、記憶についての記述であり、あるいは何一つ意味のない文字列である。人間は過去を記憶し未来を想像することのできる動物であり、私たちの行動は過去に突き動かされ、または未来に引き寄せられ、あるいはそのどちらでもないのかもしれず、それが大きな問題になるかについては私の想像でははるかに及ばないのである。

「あ」

 キーボードを叩く、ディスプレイに文字が表れる。Aのキーを押す、「あ」の文字が表れる。続いてAのキーをそっと押してみる、変わらず「あ」の文字が表れる。今度は力を入れてAを押してみる、やはり「あ」の文字が表れる。そこに表出される「あ」はどれも均一なピクセルの集合であり、表示される位置が異なるだけで同一の形をしている。任意の倍率や書体に設定することは可能だが、それはソフトウェア上で設定された文字であり、デバイスに文字入力の意思を表明した瞬間に意思表明した者のその指先に到達するまでに働いたエネルギーはリセットされる。なるほど、ハードサイエンスフィクションで描かれるシンプリシティな世界はデバイスを終着点としたエネルギーの収束に由来するのかと気付き、このエネルギーの誤差や余白のなさがテクノフォビアを招くのだろうかと考える。

 毛筆であればどうだろうか。「あ」という文字を書こうとする。目の前にはダイソーで購入した墨汁が注がれたセリアで購入した硯があり、キャンドゥで購入した半紙がハンズで購入した文鎮によっておかれ、右手にはセブンイレブンで購入した筆を持っている。体内のエネルギーを使って右手を動かし、筆に墨をつけ、硯の縁で筆を整える。半紙の上部へ筆を運び、そっと降ろし、「あ」の一画目、すなわち横に一本の線を引く。その調子で筆を何度か動かし渾身の「あ」を完成させる。そこに生じた「あ」の文字は、筆や紙や墨の質感だったり筆に加える圧力だったり筆をついたときの角度だったり、あるいはその日の気候や書いた者の体調が使用する道具や筆に加える力に影響があるかもしれない。そんなことを言い出すと、その日の気候は前日の気候からの延長にあるわけであり、前日の気候は前々日の延長にあり、はたまた前々日の気候は前々々日の延長にある。それだけならまだしも都市や森林の構造や生物の暮らしだって天候になんらかの影響を及ぼすだろう。天候や都市構造やあらゆる生物の行動は、一人の人間のある一時点での体調にだって影響があるはずだ。まさに無為自然、物質世界で物質同士が影響を与え合った一つの形として存在するこの「あ」は唯一無二の存在と捉えることも可能であり、他者による複製は不可能である。なるほど、毛筆で書かれた「あ」という文字には書く者や状況に応じた違いが確かにあるだろう。

 この違いこそが、ひとの温かみ、とかなんとか曖昧に称されるものの正体なのであろうか。仮にそうだとして、まあ言わんとすることはわかる。

 でも、その「あ」を書く際に用いたダイソーなりセブンイレブンなりで作られた道具各種は設定された機械によって量産された均質な工業製品であり、それを受け入れるのは良しとしてより身体に接近したデジタルは断じて否とするのはいまいち理屈が立たないわよね、と思ってしまうのである。

 人間とテクノロジーの付き合い方について考える。

 私はインターネットになりたいです。

出不精

 根っからの出不精引きこもり体質であるものだから、なんらかの強制力でも働かないとワンルームの一室から一歩外に出ようなんて気にはさらさらならない。なんらかの強制力のひとつが労働であったわけだが労働をストップしている身分であるため、ついつい一日中部屋の壁を眺め続けてしまう。いくらなんでもこれでは精神衛生上よろしくないのでは、とごくごく平凡な発想に至り映画の予約を取るなどするが、毎日毎日映画を観に行っては今度は懐事情が気になってしまいそれはそれで精神衛生上よろしくないのでは、と対価ゼロで取り組める部屋の壁を眺める行為に来る日も来る日も励むのである。

 せめてブログでも書いてみようかとはてなブログを開いてみるのだが、どうにも書くことが思いつかない。そういえばひとは身体を動かしながらの方が思考ができるといった旨が度々本に記されている、明日は散歩にでも出てみようかと少し考えてみるが如何せん根っからの出不精引きこもり体質であるものだから実際散歩に繰り出すかどうかはかなり怪しいところだ。

 ブログ。要するに作文である。所詮個人が日記的に更新しているブログなど、主題が決まっていたりなんらかの制限があったりするわけでもないのだから、思いついたことを思いついたままに記せばいい。それが思いつかないというのであれば、それは端的に頭が悪いということになってしまうのでは、と己の頭の悪さに薄々気付いていながらも高いプライドでそれをひた隠しにして安泰した日々を送っている私の心に自らトゲを刺してしまうのだが、高いプライドを崩壊させるために下手な文章を定期的に書き綴り公開しているのだからトゲくらいドンとこいだ。高いプライドがあったところで、近隣住民から陽が当たらないとかなんとか苦情がくるだけなのだ、プライドの日照権である。ご近所さんの洗濯物がすぐ乾くくらいの高さに留めておきたいところだ。

 人間は世界に漂う波形を受け感じ取ったことを言語で記述することで事物を認識する。書くことがない、つまり言語で記すことが思いつかないということは世界を認識していないことになる、かもしれない。このワンルームの一室ですら多くのモノが散在しており、要するに散らかっており、それを記述しようと思えばいくらでもできるはずなのだ。根っからの出不精引きこもりとはいえ、日々なんらかの行動はしているのだ。記述できないとすれば、ワンルームの一室という世界を記述できない私に非がある。停滞したワンルームの一室を記述しきったとき、根っからの出不精引きこもりである私にも漸く外に出る理由が内部から湧き出してくるのではないだろうか。外の世界も記述してやろうという気概が出てくるのではないか。

 ここ最近は、外に出ない理由を考えるので必死だ。

自宅療養

 いろいろあり9月末まで休職と相成っていたが、その後もいろいろあり年内休職という形に落ち着いた。この状況や私の精神状態が果たして落ち着いたといえるのかと疑問が生じていることも事実ではあるが、それは言葉のあやというやつである。

 言葉というのは利便性の一方で非常に厄介なもので、例えば上記した「いろいろ」って具体的に何色と何色なんですか赤色ですか青色ですかあるいは黄土色ですか、黄色い土の色は黄色なんですか黄土色なんですか、などと言語に圧縮された情報に要らぬ解凍を施すのは容易である。言語によって断絶することで解釈可能となったこの世界は一手間加えるだけで即座に抽象に戻すことが可能であり、表出される単語に圧縮された意味合いを逐一吟味していてはコミュニケーションは成り立たず、受け手が文脈からなんとなく意味を察しなければ会話など到底不可能だ。また「黄土色」のように音としての言葉が示唆する意味と言葉に当てられた文字から享受できる意味のズレは往往にして存在する。黄色っぽい土は黄土色であり、黄色い土があるとしたらそれは黄色と称している以上黄色以外の何物でもない。

 

 休職期間延長にあたり上司と面談を行った際「医師から“自宅療養”を要すると指示が出て休むんだからそれをわきまえてね」と言われた。ツイッター等でも度々話題に上がる“自宅療養”と“自宅謹慎”問題である。謹慎は身勝手な行動はせず家で慎ましく生活をしていなくてはならないけど療養はストレスのないよう外出したり活動したりしていいのだ云々のくだんの意見を思い出し、こうした場面ではむしろ“休職”や“自宅療養”という言葉を丁寧にほどき、互いの考えの差異を明確にした上でコミュニケーションをとった方が賢明なのだろうと思いながらも、多くの人々は面倒ごとは嫌いである事実に立ち戻り、そういう考え方もありますねと上司に伝えるだけに留まった。

 しかしこの“自宅療養”という言葉の字面と中身の乖離は思ったよりも甚だしいものだ。以前、休職というのは職場復帰を前提として与えられるものだ、と上司より説明を受けた。仮に休職の定義を上司の言うとおりに設定したとしよう。私の場合、職場に復帰するためには疲弊してしまった精神を健康状態に回復させることが大きな条件となる。では、精神状態を回復させるにはどうするべきか。精神疲弊の原因が職場である以上、職場と自分の距離を遠ざける、つまり自分の中での現職場の立ち位置を下げることが求められる。そのためには、仕事を休んで物理的に職場から距離を置くことに加えて、職場以外のコミュニティへの参加や職場とは関係のない人々との交流を増やして自分の生活における職場の割合を下げることも必要だ。世界の広さを知り、自分が所属している職場コミュニティが些細なものである現実を頭の中だけでなく経験をもって感じることで精神的負担を和らげる、そこに回復への活路が見出される。

 では、職場の立ち位置を低くする戦法に成功するとどうなるか。単純に「別にいまの職場に復帰する必要もないのでは?」と思うようになります、転職だやったー。

 精神療養を重視し視野を広げれば広げるほど相対的に現職場に対するこだわりは薄れ、現職場復帰への意欲も下がる。つまり、現職場への復帰を重視するのであれば、自宅に籠ってクローズドな世界を築きこの世は自宅と現職場の二空間しか存在しないのであると信じ込む方が有効である、なぜなら自分の中での職場の重要度が高まりそこに戻らないと生きることはできないと思い込めるから。だが、閉鎖的な世界に閉じこもっていてはストレス因である職場がつきまとうため精神の回復は難しい。要するに復職を大前提とした精神疾患による休職において“自宅”と“療養”は共存不可能とも考えられるのだ。

 もちろん“自宅療養”に示される“自宅”は比喩的な表現であって、職場でない場所という意味での“自宅”なのだろう。しかし“自宅”って言われてるんだから自宅でしょと捉える人々もいる。同じ言葉を扱いながら相反する状態を想定している状況もなかなかおもしろいものであるが、おもしろがっている場合ではない。

 

 私はもともと転職を検討していた中で精神を患ってしまったのでつい退職転職等を前提に考えてしまうため、それはそれでかなり偏った考え方になってしまっているとは思う。あなたは「休職」や「自宅療養」についてどうお考えでしょうか。

睡眠 その2

 休職期間が残り十日ほどとなり、ここまでの約一ヶ月でなにをしてきたかといえば、毎日ブログに日記をつけると宣言して案の定最初の一週間程度しか続かず日々寝てばかりいたわけである。

 抑うつの症状が表れると「睡眠は取れているのか」と心療内科の先生なり職場の上司なりに繰り返し問われる。これはもう状態の確認云々というよりかは軽いジャブとしての定型文であり、数年ぶりにあった学生時代の友人に「いまなにしてんの?」と問うたり新入社員と顔を合わせるたびに「仕事慣れた?」と問うたりするような、コミュニケーションのための糸口的機能もあるような気がしてくる。問う方は年間多くても3~4回程度で収まるかもしれないが、新入社員は大多数の先輩社員から一年中「仕事慣れた?」と問われ続けるのであり、慣れましたと回答して仕事を甘くみるんじゃねえと思われるのもなんだか癪だしまだまだ慣れませんといつまでもヒヨコ振るわけにもいかまい。瞬時に考え尽くせる限りの全てのパターンを検討した結果、まあぼちぼちです、といった具合に回答にならぬ中途半端な回答を絞り出しコミュニケーションを図ろうと先方より放たれた「仕事慣れた?」を軽快に捌くことで、ジャブをかわされた先方は釈然としない様子で去っていくのである。先方からジャブを出しておいて一方的に機嫌を損ねて私の好感度が下がるくらいなら最初からジャブを打たないでほしいとこちらも釈然としない気分になるが、こうした機会を経て私の好感度が少しずつ削り取られてコミュニケーションを図ろうと思われなくなるというのであれば一応ジャブの効果は生まれるのであり、それはどちらかというとジャブではなくローキックなのではないかと思い直すのである。

 我々のような紫外線に嫌われし陰の者共はいちいちジャブだローキックだなどと考えてしまうが、どうも陽の方々は特に気にはしないらしい。もしかするとジャブだローキックだなどと考えてしまう人ほど精神がつらくなってしまうのかもしれない。ジャブやローキックを繰り出す方はやはり体育会系であり、心も身体も屈強なのだ。

 ローキックに心を削られ直立することすらできなくなった私は寝てばかりいたわけだが、心療内科の先生が訊く「睡眠は取れているのか」にはちゃんと意味があるらしい。意味があるどころか睡眠が取れなくなる症状が存在するらしい。平均7時間ほど睡眠をとっていた生活を改変し今年に入った辺りから睡眠を4時間程度に留めたサイクルで生活を送っていた私は、抑うつ状態が表れた春先以降は起床のしんどさが倍増したことにより却って睡眠時間が元に戻った(=延びた)ように感じていたが、休職に突入してからはよくよく考えてみると眠りは浅いし夜中に目をさますことも多いし起床が難しくなったのはそのせいだったのかしらんと思わないこともないわけであるが、先月に睡眠障害についての旨は弊ブログにて記し済みであることにここへきて気付く有様であり、これはやはり不眠症による記憶障害なのではと強引に自身を正当化してやり過ごすわけだ。

 夜中に目を覚まし満足な睡眠を取れない状態がいつしかそもそも入眠できない状態へと移り変わりにっちもさっちいかなくなってきたため、心療内科の先生に睡眠のお薬を出してもらう。さすが医薬品、これが科学の力かと驚くほどに、相変わらず眠れたり眠れなかったりしているわけだが、おかげさまで眠れない夜は減少しており薬を服用した明くる日は睡眠が取れたおかげで調子が良い日も多く、「どうしても眠れないときだけ飲んでね」と言われた丸くて小さな錠剤を毎晩口に放り込むことになる。自律神経の乱れを科学の力でひれ伏させる快楽に抗うことはヒトの理性では不可能に近い。

 多くの現代人は睡眠が大好きであり、布団や毛布を愛している。人間の仕事がテクノロジーに代替された社会では、睡眠が褒め称えられ居眠りや寝坊が絶賛される界隈もできるのだろうか、と眠い目をこすりながら夢みたいなことを思う緊張感のない毎日だ、職場への復帰は難しいだろう。

ペンギン

 ペンギンという動物は、なぜあんなにも愛らしい姿をしているのだろうか。

 つぶらな瞳に、他を寄せ付けない黒と眩しいくらいの白が織り成す鮮やかなコントラスト、パタパタ開く小さな翼、ずんぐりむっくりとした図体、この世の愛らしさを全てつぎ込んだかのような、愛らしさに愛されしその存在は、見るもの全てを魅了する。やる気なさげに身体の重心をゆらゆらさせながら、短い足でよちよち歩くその姿に、心を打たれない瞬間はない。

 ペンギンは鳥類でありながら空を飛ぶことはできない。しかし、彼らは空を飛ぶかのごとく水の中を泳ぐことができる。エサである魚の捕らえやすさを求め、空を捨て、生きるフィールドを海へと移行したペンギンだが、その代償として、シャチやアザラシ、アシカなどの海洋動物に命を奪われる危険に見舞われることにもなる。

 結局どんな環境で生きようとも、プラスの面もマイナスの面も両方そびえ立っており、自分にとって譲れないなにかしらを一つ二つ尊重して、残るは思うとおりにしたいなどと考えずひたすらに我慢していかねばならないのだろうなと、職にストレスを抱え、職を休み、あわよくば職を転じようとしている自分とペンギンの住環境を重ね合わせる。そんなことはごもっとも、笑止千万、至極当然のことではあるのだが、大人になることとはすなわち我慢することであるというトートロジーがどうにも腑に落ちず、我慢なんてしたくないから我慢しないという自己主張を押し通す気になることしかできない。わがままを言い続けることがこどもであるというのなら、こどもの方がよっぽど尊いと感じてしまう。大人になりきれないうちは徹底的にこどもであろうと思うし、僕が子供で居続けられるよう、周りの人々には我慢と割り切りの身についた立派な大人になって一生懸命お勤めをしてほしい、そんなバカを願うばかりだ。というか、早くAIが人間の仕事を全部奪ってしまえばいい、僕らは人間から解放され、一度ヒトへと戻るべきなんだ。

 ああ、なんてたのしい現実逃避、虚しいだけの主義、挙句に乱れる精神。大人になれない僕らの、強がりを一つ聞いてくれ、そう強く叫んだところで、聞いてくれる人がどこにいるだろう。23歳、目の前がだんだん暗くなっている気がする。

 

 ペンギンといえば、森見登美彦原作の映画『ペンギン・ハイウェイ』がなにやら炎上中のようだ。発火元は、主人公のアオヤマくんがおっぱいおっぱい言いすぎるもんだから、こいつぁ性的搾取だ てやんでぃ、ということのよう。作中でのアオヤマくんのおっぱいに対する熱意は、同じヒトでありながら自分にないものに対する内発的な興味関心というか、もっと単純に自己とは異なる他者への関心でもいいのだけど、“自分と他人とはみんな当然違うんだし、先入観を捨てて違いがあることそれ自体を認め合うところから始めようぜ”的なダイバーシティインクルーシブのノリにむしろ近いようにも思う。おっぱいを性的たらしめているのは、おっぱいは限りなく性的であるとしてきたこれまでの歴史であり、歴史を築いてきた大人たちであるよなあとか、フェミニズムのサングラスによってなんでもないものが性的なるものとして成立することがあり、逆もまた然りであって、自分もなんらかのサングラスをかけているんだろうなあとか、なにかと思うことはあるのだが、ろくに吟味もせず適当なことを書いて飛び火を食らうのも嫌なので、この辺で留めておきます。ただ少なくとも、僕が観た限りでは、作中のアオヤマくんはおっぱいを性的消費しようなど考えていなかったし、性的消費するやつがいるとすればそれは紛れもなく観客の側だ。

 保険のためもう一度書きますが、うろ覚えの記憶で、ろくに吟味もせず適当なことを書いています、言葉の表現もろくに熟考してません、よろしくお願いします、マジで。

 

 この情報社会、ひとりひとりが情報発信可能なメディアとなった現代ではあるが、情報を得たのちに思考することが難しいのも去ることながら、思考を言語化することに尋常なまでの難しさを感じるこの頃だ。

睡眠

 眠れない夜というのはいつ以来だろうか。

 思い返せば、少年時代、戦隊ヒーローもののブルーに憧れ、常に冷静でクールさを発揮することがカッコよさであると信じて疑わず、学校行事に対しても「ふっ、子どもたちは無邪気だな…」と冷めた様子でカッコつけていた僕であったが、実は遠足前日の夜はワクワクしすぎて寝付けないことも多かった気がする。遠足や運動会の日というのは、神様の粋な計らいによって、1週間ほど前には週間天気予報にて雨マークをチラつかせ、ちびっこ各位をハラハラさせるものであり、前日は案の定雨が降り、我々はてるてる坊主をカーテンレールにぶら下げる行為にせっせと励んだものだ。そして、夜、いつもより早い登校時間に備え、いつもより早く布団の中へ潜り込んではみるが、どうにも目が冴える。適当に考え事でもしていれば眠れるだろうかと、翌日のシミュレーションをしてみるが、この自分を主人公とした学校行事物語がなんだか盛り上がってしまい、なにがどう展開したのか、いつの間にやら怪獣と闘う始末ときた。怪獣を倒すのに意外と苦戦をしていると、夕方には止んでいた雨がまた降り始めたようだ。サーサーと細い雨が窓を叩く音がする、ああ、これは明日は中止かなと憂いながら雨音に耳を傾けていると、気づいた頃にはコクリとおやすみモード、大方こんな塩梅である。

 そんなどうでもいいような昔懐かしのノスタルジックエピソードならまだいいが、近頃の僕を悩ませている睡眠不良はもう少し深刻だ。ベッドへ入れば入眠こそできるが、2時間もすれば目を覚ます、まだまだ起きるには早すぎると目をつむるが、2時間もすればまた目をさます、そんなことを数度繰り返せばすっかり外は明るく、そろそろ身体を起こしたいところではあるが、睡眠が満足いかないものだから眠気で頭が重く、身体なんて起こせたものじゃない。あと1時間だけと思いながらタオルケットにくるまり、完全に目を覚ます頃には昼時だ。浅い睡眠しかできていないものだから、日中も常に眠気がつきまとい、どこかふわふわする、外に出る気も本を読む気もおこらない、浮遊感の中ぼーっとしていると陽は傾き、あれよあれよと就寝時刻。しかし、その頃になってようやく頭と身体が機能し出すのだから仕様がない。せっかく休みをもらっておいて、かえって状態が悪くなってはないかしらん、日頃お目にかかれない一ヶ月ちょっとの休暇期間、自由という名の不安に襲われ、自律神経が余計に不安定になったのかしらん、と頭の中をぐるぐる巡る。巡り巡る負の連鎖、一ヶ月先はどうなっていることやら。

 

 自身の睡眠の不調に気づいたのはここ一二週間の話だが、もっと以前から睡眠障害は発生していたような気もする。気がする、というのにも理由があって、今年に入ってからの僕は「睡眠、己の人生という時間は消費しているのに身動き取れないしめちゃくちゃもったいないじゃん」という焦燥感に駆られ、睡眠時間を4時間程に抑えて生活していた。精神不良が著しくなるに伴い、ショートスリープ生活ができなくなるのだが、ショートスリープ生活をしていたが故に、睡眠時間が“普通”に戻る変化と、自律神経の衰弱による睡眠の変化が重なり、睡眠不良が体調に明らかな悪影響を与えるまで「精神状態は良くないが、睡眠は問題ない」と思い込んでしまっていたのである。

 ここで邪魔をしたのが“普通”というものさし。普通、標準、一般など、いわゆる“常識的”や“当たり前”とされるものさしというのは、当然ながらありとあらゆるところで用いられ、皆が共通とする価値観として大衆に安心を与えるが、その“当たり前”な評価軸が悪に転じることが多々あるどころか、往往にしてありますよね、というような話を今日は書きたかったのだが、枕をだらだらと綴りすぎた。本題は次回に持ち越すとして、本日はもう就寝の時刻である。今夜はよく眠れるだろうか。