落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

いまだに職が決まらない話

 相も変わらず求人サイトを眺め、気が向いた企業に応募を出し、時には面接を受けるなどを挟みながら、お祈りのメッセージを受信する日々を重ね、一向に私という個人に必要性を見出してくれる企業様に出会えない状況に肩を落とし、出会えないというか私に価値を見出してくれる組織は存在しないのではないかと不安になりながら、とにかく私という個人が代替可能な存在であり、私の上位互換たる他者が世にはあふれているのであって、私が祈られた企業には彼らが無事採用されているだろうことに思いを馳せ、それはそれで世の中的には幸福な結果になっているのでしょうと妙な納得の仕方で心の平穏を保とうとする。
 読点を臆せず多用した長い一文を書くことに快楽を感じる。読み手のことなど一切考えずにただ己の快楽のみに従い、目の前の文がいつまでも終わらぬようにと願いながら、テキストを打ち込む。その長文癖が染み付いてしまっているのか、志望動機を書こうにもやはり一文が長くなってしまうし、ビジネスライクに整えようと短くわかりやすく修正を試みるのだが、その文章からは自分の身体性が欠如しているようでどうにも私の書いた文章という感覚が得られず、これで自己のPRになどなるわけがなかろうと改めて長文を書き直す。
 こうして社会が求めるであろう姿から遠退く姿勢で就職活動に挑んでいるのだから、当然結果も実らないわけで、もっと世間に適応しろと言われればそのとおりなのだが、ならば世が私に適応してくれたっていいではないか。個人は異質な個人を受け入れられるけれど、社会(あるいは社会の一部となった個人)は例えそれが明らかに非合理的、または非倫理的だとしても異質な個人をいつまでも受け入れないものよね、というのは先日『グリーンブック』という映画を観た際に思ったことで、パブリックな環境であればあるほどに「私自身は別に構わないけど、他の誰かが不満を抱くかもしれない」「私自身は別に構わないけど、規則で決まっているからこの場では許容はできない」と判断基準が特定個人から特定できない何者かである他者に委ねられ、その特定できない他者たる「大衆(public)」が個人に不寛容であるのならば、個人と個人との繋がりで構成される「社会(social)」な環境をいかに増加・拡張させていくかが、個人主義時代では求められるのではないかと思う。個人という幻想を与えられた現代人がその幻想を理性で放棄することはおそらく難しく、ならばその幻想が幻想であることを自覚しながらも、その幻想をどこまで追い求められるか挑んでいかなければならないのだろう。私が公務員というpublicに100%傾いた組織を脱した理由の一つにそうした意識もあった以上、自己を受け入れずに他者をも受け入れないような組織は例えいくら金を積まれようとやはり遠慮したい気持ちが強い。
 生きるために生きようとする気はない、だけどお金がないやら仕事がないやらを原因にヒトが死ぬことはなく、どこまで追い込まれようとそれを苦悩として抱えながら生きなければいけない現実に既にどうにも耐えられなくなり、どうにか耐えていくために落ち着きを取り戻そうと、いま唯一の自分の居場所たる自宅から少し離れてやろうじゃないかと当てもなくJR中央本線に揺られ甲府まで出かけたのはつい先日のことだ。
 八王子から各駅停車で2時間程度、大して離れている土地でもない甲府に何がある訳でもなく、桜の咲いた駅近の公園を夜通し散策し、駅の構内で野宿をし、明け方からまた散歩をして昼過ぎに帰路へ着いた。収入がない状況で交通費だけが飛び立っていき、それと引き換えに手に入れたものと言えば満開の桜と電車内での読書時間、初めての野宿と久々の運動となった長時間の散歩くらいであったが、一日かけて甲府駅近辺を散歩してから身体の調子もよく、運動の重要さと日頃の運動不足を確認できたことはそれなりの価値があったのかもしれない。なにより初めての野宿はいい体験で、規則や伝統に束縛されることを嫌い、自分の思いついたことを好き勝手に試すのが好きな性格ながら、一方で異常に他人目を気にしてかしこまり、失敗を恐れておどおどしてしまう性質をも兼ね備えている私にとって、公衆の場、横になるべきではない場で自己都合に従って寝るという行為は、自身の殻を破るきっかけとしてどこかで活きるのではないかと感じており、例えば再就職先を見つけるに際して何らかの形で活きてきてほしい、というのはただの願望だ。
 肉体的にも精神的にも労働能力がないわけではないため、生活保護などの恩恵を預かることもできない私はやはり働いて金銭を稼ぐしか手段はなく、自ら事業を起こす意思も能力も野望もないためやはりどこかしらの事業主に雇ってもらうしか他ないのである。かといってpublicに加担する大半の企業に労力を貸与する気もさらさらなく、一方で10年後、20年後の世の中をより幸福な構造にすべく既存体制の超克へ挑んでいる企業様を選んでいられるような立場でもない。コンビニエンスストアなどでアルバイトに励むのが私ができる精一杯の世のため人のための行為であるような気もする。
 生活の上で自分の中に生じる腑に落ちなさを紐解きながら、やけに偉そうなことを色々思ってしまう質ではあるが、熱心に勉強に励む教養者では決してなく、むしろ不勉強に不勉強を重ね逃げるようにここまで生きてきてしまった何ら教養のない輩こそが私なのだから、その不勉強さが諸々の腑に落ちなさや世への適応できなさにつながっている可能性も十分に考えられるのであって、やはり人間たる存在が何者であるかとか、人間を機能させるための構造がどんな仕組みであるかなどを少しずつ勉強していかなければならぬよねと思い、明日も図書館へ通うのだ。
 結局、いつまでも再就職が果たせないのも単純に人や会社に認められるだけの能力がないだけなのかもしれない、単純に。

傘の所持を放棄した話など

 ここ1〜2年ほど私の鉄板トークになっているもので「傘の所持を放棄した話」というのがある。
 内容は単純。雨が降っている日、傘を持って外出しても帰りにはどこかへ置きっぱなしだったり、置きっぱなしにしているもんだから雨が降った日に自宅に傘がなくわざわざコンビニで買ったり、晴れていたから傘を持たず出発したら帰りには雨が降っており天気予報を確認しなかった過去の自分にウンザリしたり、ウンザリしながらコンビニに寄って余計に傘を買ったり、帰宅すれば玄関に大量の傘が溜まっていたり……。それに加えて、そもそも傘をさすのが下手だから傘をさしていても足元がやけに濡れていたり、傘を持ち歩くのが煩わしかったり、とまあ傘を所持することで雨に濡れずに済むという利点以上に、傘が存在することで辟易とする出来事ばかりが目立ち、傘があることで却って日々のストレスは増えているのではないかと疑いを抱いたのがきっかけで、だったら傘なんてアイテムはなかったことにしてしまおうと所持している傘をすべて捨て、それ以降は傘を一切購入しないと決めて今は傘なしの生活を送っております、というお話である。
 面白い話かどうかは知らないが、雨が降る日に人と会うと当然のように傘を持っていないのか問われるわけで、そのたびに傘を持つのをやめた話をしているため、必然的に話す回数が増え、気づけばこの話をする機会が多いなあと何やら鉄板トークのような立ち位置に君臨してしまっている。ぼく傘持ってないんですよ、とあたかもウチにテレビないんですよ的なノリでせいぜい500円程度のアイテムを家財の如く扱い出すのはそこそこ滑稽にも思えるし、軽い小話を持っていると便利だなという実感もあるので、傘を持つより傘を持たないというエピソードがある方が生活は豊かになるのかもしれない。
 ちなみに傘を持たないことで小話が増えただけでなく、余計な出費は減ったし、傘の持ち忘れに一喜一憂することもなくなったし、人といるときは割とみんな傘に入れてくれて嬉しいし(一方で手間を取らせて迷惑はかけているのだが、恋人とかの関係性でなくとも物理的近い距離で歩くとすごく楽しい)、何かとメリットが多い。デメリットといえば雨が降った日に濡れるくらいなもので、雨は水なので触れたら濡れるのは当然だし、雨が降るのも自然の摂理だし、雨は天災であって抗いようがなく、こんなとき傘があればなどと思いそうになったときは私の生きる環世界に傘なる存在はないという設定を強く意識し、空から水が落ちてきて身体が濡れて冷えがちなタイミングもあるのが地球で生きていくことであると当然のように過ごすだけである。
 この「あるものをないとする」という生存戦略は他にも汎用できるのではないかと最近考えている。例えば、いま職がなく再就職先も一向に見つからず将来が不安になっている私だが、不安とは苦しみそのものではなく苦しみが訪れるかもしれないという気持ちな訳で、つまり不安の原因は職がないことではなく、定職に就けずフリーターとして生活することになれば将来的に金銭で困りそう、といったところだろう。フリーターだとなぜ金銭で困りそうなのかと問われれば、時給制であるとか、手当や賞与がないだとか、長く勤めても昇給がわずかだとか、そんな類いである。であるならば、それらはそもそも「ない」ものにしたりしまえばいいわけで、手当や賞与などの制度は存在しないと設定すれば賞与があればもっと楽に生活できるのに……と思い煩う必要もなくなる。時給制にしても賞与にしても昇給にしても前職や正規雇用での待遇と相対化するがゆえに心配になるだけなのだから、相対化などしなければいい。あるいは、自分に未来があると思い込んでしまっているから将来に対する不安を募らせてしまうのだから、未来なんてものは「ない」と設定してしまえばいい。余計な悩みに費やすエネルギーがあるなら読書に耽っていた方が幸福度は高くなるだろう、ならば「ない」ことにして心置きなく読書に励もうではないか。おそらく私にはそうした人間が歴史の上で創ってきた概念を無視する生き方のほうが向いているような気がする。
 未来をないことにできるなら、過去もないことにしたっていい。私には秋田県出身で地元の阿呆な高校を出て東京で就職して3年半で辞めたという事実があるが、「秋田県出身で地元の阿呆な高校を出て東京で就職して3年半で辞めたという設定」という設定で過ごせば肩の荷も下りるのではないか。世界五分前仮説を信仰する奇人のようになってしまうが、過去に束縛されてしまいがちな私なら、過去がこういう設定になっているからいまこうなっている、と意味不明な割り切りをした方がおそらくストレスは少ない。
 過去という経験は現在を構成し、体系化された過去は未来へと超越する。それが人間の認識であるが、それは人間の認識でしかない。過去・現在・未来というパラダイムから脱却し、記憶という朧げな体験を朧げであるがままにし、現在に渡って与えられている文化を時には拒み、未来を創造する信念を放棄する。なんかそういう生き方ができないのかな、とかつい考えてしまうせいでいつまで経っても再就職先が見つからないのである。社会全体でそんなことを言い出したら秩序は狂いそうだが、個人の生存戦略としてはそこそこおもしろいんじゃないの、と本気で思う。
 まあのんびりいきましょうね。

近況をただだらだらと書いただけのやつ

〈1〉
 再就職先を見つけるべくマイナビへアクセスし求人検索をする。いくつかの求人を眺め、この企業が行う事業は本当に世に必要なことなのだろうかと、知ったような顔をして偉そうに難癖をつけながら、結局求人を眺めただけで何かを達成した気になり満足気にブラウザを閉じる。責務を果たした後は心置きなくアニメを見て、飽き次第ツイッターを眺める。目に疲労を感じたら、横になって瞼を閉じながら脱力し、意識をどこかへ葬り去る。暇を優雅に過ごす日々を飽くことなく繰り返し、気づけば外はいくらか暖かくなっていて、日と時間帯によっては室内の方が冷え冷えとしているようなのだが、いかんせん滅多に外出をしないから室内外の温度差は定かではない。
 日毎に気候は明らかに冬から春へと移行しているが、私の状況は1月末に書いたブログ時点から何一つ進展しておらず、変化といえばせいぜい御社からいただいたお祈りの数が増加した程度だ。ここまで企業各位から必要とされていない旨の通知をもらうと自信パラメータが凄まじい勢いで底値をぶち破っていくことは皆も知るとおりであり、仕舞いには私が企業に提供する1時間に985円(=東京都最低賃金)もの価値があるのかどうかすらわからなくなってくる。1時間985円に見合った労働をする自信がないのだ。これは例えば友人と遊ぶにしても、私の1時間とあなたの1時間との濃度の差に耐えきれず、天秤の釣り合ってなさに申し訳ない思いでいっぱいになり、不足分を現金で支払うので私と遊んでくださいませんかと頭を下げるべきなのではないだろうかと心配になる。集う理由が一致したから遊ぶのであり、対等な立場であるのだから労働契約とは話がまったく異なるのは承知なのだが、友人にメールを送ることですら怖気付いてしまう(メールを見ていただく、返事を送っていただくためにあなた様の貴重なお時間を割いてしまうのはどうにも恐縮してしまう)状況で求人に応募などできるわけもなく、お酒を飲んだり将来への不安が突如大きくなったりでもしなくては書類審査すらお願いできず、何かの間違いで面接にお呼ばれしてしまった場合にはうろたえる以外の動作を失念してしまう可能性が大だ。いっそ友人に対価を支払うから私と遊んでくれと頼み込むように、そんな頼みを本当にしたことがあるわけではないが、お金を払うから社会的責任を付与してくれと企業にお願い申し上げたくもなるこの頃であって、実際問題関心のある事業に携わらせてもらえるならば月額1万円くらいなら喜んで支払いたい気持ちはいくらかあり、むしろ参加費を支払って参加する程度の距離感の方が支配関係が適度に保たれるんでなかろうかと思わないこともなく、とはいえ面接の機会に月額1万円払うので雇ってくださいとの交渉に踏み切れるほどの度胸もないのである。
 ツイッターを見ればつい先日仕事を退職したと書いていた人が次の勤め先決まったと書き込んでいるなどしており、他人は他人、自分は自分と思いながらも、やはり焦りが発生し、今日も机の下で行われる貧乏ゆすりは止まることを知らない。

〈2〉
 いくら呑気な私でも収入がないことには生活が営めないことくらい認識しており、収入の見込みがない現状が続くのは危機的であることも理解しているため、正規雇用契約社員での勤務は一度諦め、時給制のパートに応募し本日面接を受けてきたところだ。週5日1日7時間勤務の時給1,000円という条件でこの先に過酷な生活が待っていることは目に見えているが、時給0円生活をいつまでも続けてはいられない、そもそも私の1時間に985円の価値があるのかすら自信がないのは前述のとおりだ、1,000円もの価値を見出してくれるのであれば万々歳である。高望みはせず最低限の条件で雇ってもらい、どこかのタイミングで夜のバイトも入れるなどして時間を切り売りしながら細々と生活を送る以外にもはや選択肢は残されていないため、なんだかんだで半年以上労働から遠ざかっているのだからリハビリとして1年ほど単純労働に励み、来年4月の定職獲得を目指す道もアリではないかと自分に言い聞かせてはいるが、なにか典型的フリーターの末路を辿っているようで気が気でない。
 あるいは、一日7時間勤務というゆとりを生かして、それこそかねてより希望している文集づくりなどに着手してもよさそうだが、一人で行動を起こせない性格が邪魔をしていまいち企画づくりには乗り出せないし、何かをつくる遊びを気軽に誘える友人もおらず、仲の良い友人が近くにいる人が羨ましいなあとおそらく小学校高学年の時から抱いているだろう思いをいつものように掘り起こすのだ。結局私は友達という存在に憧れていて、友達という存在と心ゆくまで遊んでいたいだけなのだと、最近は自己に渦巻く欲望には自覚的であり、なぜ友達と遊ぶことに憧れているかといえばやはり幼少期からの羨望や嫉妬に起因しているため、そろそろ忌々しくも付き纏う過去から解放されたいのが本当のところだ。

〈3〉
 安定した職に就いて、安定は別にいらないかもなと退職し、いざ不安定な生活をしているとやはり不安なもので、何が不安かといえば一番に金銭である。人間という存在はどうやら能動的に死ぬことは許されておらず、生きる術を失っても死んではならず手段がないなりに生きなければならないという苦を請け負っている。人間の生命は生死の二項対立で済む話ではなく、生と死の間に更にいくつかの段階があって、死のひとつふたつ手前くらいが死以上に残酷な段階なのではないだろうか。そして今自分はどの段階にいるのだろうかと不安が発生し、寝て、忘れて、また夜になるとより大きな不安として現れる。
 私は不安を払拭するために本を読む。連なった文字を読み取り、文字を連ねた人物の思いを少しでも汲み取ろうと励む。他人が書いた文章は私に安らぎを与える。
 結局のところ、不安が生じるのは自分の意志がないからで、ここで言う意志とは軸だとか物差しだとかコンパスだとかの意味合いになるのだが、意志がないからやりたいと思っていることにも踏ん切りがつかないし、意志がないから組織から与えられた意志に従って与えられた仕事をしているのが安定していられるし、意志がないから本を読んで他人の意志を覗き込めると安心できるのだと思う。
 私は私が何をどうしたいのかがわかっておらず、それどころか何をどうしたいという思いを抱いてすらなく、ただなんとなく資本主義経済の下、消費社会の下、それらの名詞が一体なにを意味するのかもわからないまま動かされるように動いているだけなのだろう。
 私なる意識、意識なるなにか、それが一体なんなのかもわからずに自己をPRできるはずもなく、志望の動機を見つけられるはずもなく、いつまでもスタート地点でぐるぐると廻り続けてしまう。振り返れば中学三年の頃はよくわからないから高校進学しなくてもいいのでは、と言い続けて親や担任教師を困らせていたし、高校三年の頃も生きる意味がわからないから進路を決められないとこれまた親や担任教師を困らせていた。23のいま、親や教師がいなくなった状況で私はまたわからなくなっている。あるいは、ついわからなくなってしまうのが私なのかもしれない。わからなくなってしまうことを繰り返していまに至り、いまもなおわからなくなっているのであれば、わからなくなるのが私の自然体であり、わからなさとどう向き合っていくのかが私が生きる上でのゲームなのかもしれない。

 本稿において何を書きたいのかもわからなくなっているのでもうやめにしよう。いま私が述べたいことは『映画ドラえもん のび太の月面探査記』がかなりおもしろいということだけだ。

彼の人が好きなaikoの曲は『えりあし』だった

〈1〉
 未来は無限で現在は永遠、だがそれも過去と化せば一瞬だ。今日あるものは明日もそこにあると無意識に信じてしまうが、自然は常に流動し続ける。常に空を見上げていても同じ形の雲を見つけることはできないように、私自身もどこかになにかの変化が生じており、昨日の自分が今日の自分と全く同じであるはずもない。身体を構築する細胞は分裂と消失を繰り返す。ならば、いま抱いている「好き」という感情が明日にはパタリと消えてしまっても何ら不思議ではなく、むしろいつかは消えてしまうのが当然なのだろう。それが自然の摂理だ。諸行は無常、だからいま抱いている「好き」を大切にすべきなのだ。
 それが全てだと思っていた、彼女と出会うまでは。

 彼女とは誰か、aikoだ。
 aikoは『えりあし』でこう歌う。

季節に逆らい想い続けて今もあなたを好きなままよ
『えりあし』

 aikoは従来変わってしまうのが当然とされる想いを普遍として我々に提示する。aikoがあなたに対して抱く「好き」は、今日のあなたへの想いであり、明日のあなたへの想いであり、昨日のあなたへの想いである。aikoの「好き」は〈好き/嫌い〉の二元論をも超越し、普遍へと到達する。有と無を同時に包容する限りなき「好き」だ。
 だからaikoaikoであり、aikoaikoとなる。aiko以外はaikoに至れず、aiko知らずして世界の真理に至れない。私たちがaikoを崇める理由の一つはおそらくそこにあるのではないだろうか。

 


aiko-『えりあし』music video short version

 

 

〈2〉
「私は『えりあし』が好き」
 彼の人が放った一言を私はいまだに覚えている。
 彼の人自身がその一言を覚えているかは定かではなく、その場面やその環境、私の存在だって彼の人の記憶にどう保管されているのか私にはわからない。かくいう私も、それが当時通っていた学校の中でのことだったのは覚えているが、どの季節のどの時間帯だったか、あるいは彼の人の口調、声、表情、仕草、そのいずれもが記憶の城から解き放たれ、この世の彼方へと離散している。
 それが自然の摂理であり、季節の移ろいであり、時間の経過というものだ。むしろ記憶というのは風化するからこそ愛おしさが増す。薄れた過去はその後の経験によって補完される。現在によって再構築された過去は新たなる過去となり姿を見せる。だから私はいま私の過去を記述している。愛おしさによって、愛おしさのままに、愛おしさに従って。
 私が覚えているその一言も事実ではないのかもしれない。音声としてありのままに保管されていない以上、私の頭の中で身勝手に創造された現実離れした彼の人による現実に放たれていない一言である可能性は誰にも否定できない。
「私は『えりあし』が好き」
 彼の人は確かにそう言った。季節に逆らい私の記憶に残り続けているそれは、私にとっての一つの真実だ。

 彼の人とは誰か、aikoではない。

 学校という同じ箱の中の、学級というさらに小さな同じ箱に収められた彼の人は、私の視界に存在していることが多かった。それは意識的だったのかもしれず、無意識的だったのかもしれず、無意識を装った意識的なものだったかもしれない。あるいは、網膜に投影される像から彼の人を照らす光を探し出すことを習慣化してしまっていたような気もする。私は彼の人を気にした、彼の人から見えている世界がどんな色をしているのか知りたかった。知ることはできなかった。知らなかった。知りたかった。
 私は彼の人のことを知らなかった。親しい間柄だったわけではなく、むしろ会話に及んだことすらろくになかったように思う。しかしそれでも、彼の人を構成させる物質から反射される光を私は受容し、その光の感受によって一方的な感情のざわつきをただただ覚えていた、ような気がする。それを人を好きになることと呼んでいいのか、私はいまだにわからない。おそらくは呼ばない方がいいのだろう。限られた空間のなかで接触を繰り返すうちに特定の人物をなんとなく気になってしまうその現象を、私は恋とは呼ばず、好意とも呼ばなかった。
 学校という閉鎖空間と思春期という歪みによって生み出される過剰な自意識を守りたくて、私は彼の人に話しかけることも近づくことも極力避けていた。彼の人がどこを見ているのか、ただただ遠くからなんとなく眺めていた。それだけのことなのだ。
 そんな彼の人を交えた場で、どうしてそんな話になったのかはわからない。でも確かに聴いたのだ。彼の人はaikoの『えりあし』が好きだった。
 私は彼の人のことを何も知らなかったが、彼の人が好きなaikoの曲を知った。彼の人は『えりあし』が好きと言った。それでよかった。それだけで十分だった。そよ風にすら満たない程に小さく、何の足しにもならない程にわずかだったかもしれないが彼の人が見ている世界を見せてもらえたような気がした。

一度たりとも忘れた事はない 少しのびた襟足を あなたのヘタな笑顔を
『えりあし』

 彼の人が誰かを想い続けているとして、その誰かなる存在のどこに特別性を感じるのだろうか。のびた襟足を見ているかもしれない、ヘタな笑顔を見ているかもしれない、きっと他の人たちにはわからない彼の人だけのあなたが見えているのだろう。彼の人が他者に感じる特別な部分を知る由が私にはないことに私は気づいていた。彼の人にとってのあなたが私ではないことに私は気づいていた。彼の人にとってのあなたは私ではないのと同時に、私にとってのあなたも彼の人ではないことを私は知っていた。私は視界にいた彼の人のどこに彼の人を感じていたのか、今となっては何一つ思い出すことはできない。

 

〈3〉

時は経ち目をつむっても歩ける程よ あたしの旅
『えりあし』

 時は経った。当時の私が何を想い、何を感じ、何を求めて彼の人を見ていたのか、なぜ彼の人がいまだに印象に残っているのか、その理由を知る者は、世界中のどこを探そうと見つかりはしない。どんなに考えて収まりのよい回答を出そうと、それは現在から推測される過去であり、現在として投影された過去ではない。
 それでもあの時あの場所に、何かを想い、何かを感じ、何かを求めて彼の人を見ていた私は確かに存在した。幾度季節が流れ過ぎようと、そいつは揺るぎなく存在し続けるはずだ。幾度季節が流れ過ぎようと、現在の私が時を理由に彼の人の姿や名前を忘却しようと、私という存在はそいつを経由した上で成り立っている事実は未来永劫つきまとうはずだ。
 今日の私と昨日の私は異なるのかもしれない。昨日の私を構成した粒子は今日の私を構成していないのかもしれない。それでも昨日の私を構成した粒子は世界に存在し、今日の私を構成する粒子は明日以降の何かを構成し続ける。それはいつか破壊され、その破壊は何かを新たに創出し、新たな何かは新たな何かの構築に携わる。

 彼の人を見ていた私を構成していたなにがしは、いまもなにかの形で存在している。

5年後あなたを見つけたら 背筋を伸ばして声を掛けるね
『えりあし』

 背筋が伸びた私は、当時の私とは異なっているだろう。あなたの中からも、私の好きだった少しのびた襟足はなくなっているかもしれないし、ぎこちない笑顔ももう見れないのかもしれない。
 それでも私は声を掛ける。もう会うことはないと思っていたあなたを、何かの拍子で見かけたのなら。見つけることができたのなら。背筋を伸ばして。5年後の私で。5年後のあなたへ。あのときの私のまま。あのときのあなたのまま。

 

〈4〉

 私はあなたの好きなaikoの曲を知らなかった
 私はあなたが好きなaikoの曲を知らない。
 私はあなたが好きなaikoの曲を知りたい。
 私はあなたが好きなaikoの曲を知りたかった。
 私はあなたが好きなaikoの曲を知ることができた。
 知らない。知りたい。知りたかった。知ることができた。知れたのかもしれない。知ることができなかった。知らなかった。それでも知りたかった。知りたかった。

 彼の人が好きなaikoの曲は『えりあし』だった。

退職後の近況(再就職先を探すにあたってのあれこれなどを)

<1>

 昨年いっぱいで職を辞し、最近は再就職先を探す活動に励んでいる。いや、“励んでいる”とはあまりに誇張な表現。自由という錯覚を覚えながら穏やかな時間を過ごす日々の中で生活費という現実に少しずつ身体を蝕まれ、削られた身体のほころびをたまに確認してはやれやれと重い腰を上げ、転職サイトへアクセスし画面を一通り眺めて何かをした気になる、それがありのままの現状だ。

 次なる職探しを開始してからおそらく3ヶ月ほど経つ。本格的に取り組み始めたのは前職を退いた後だったが、病気休暇中にも暇つぶし程度にぼちぼちと求人広告を探しては応募をしていた。その頃はまだ時間的経済的に余裕があったため、インターネットに点在した就職活動マニュアルに目を通しては馬鹿馬鹿しいと一蹴し、ある程度のルール化を経て現代スポーツの認定も秒読みとなった就職活動なる競技に、どこまで自由な戦法が通じるのだろうかと御社各位に提出する書類を実験的に書くなどしていた。具体的には、御社や業界や社会を挑発するような内容の志望動機や自己PRをひたすら書いた。一生懸命売り込んだその喧嘩を買ってくれる企業はあまりなかった。

 切迫感を感じることなくのんびりと応募を出したり出さなかったりしていたわけだが、先日、ようやく某社の書類選考に通過し面接を受けることができた。
 前職を辞めた理由を訊かれた。前職に就いた理由が当時身を置いていた環境からの逃避であり、就いた時点で逃避の目的を達成していたためむしろ続ける理由がなかった、と何一つ脚色することなく素直に回答したところ、継続への意欲のなさが逆鱗に触れたらしく御社のおじさんよりお怒りのお言葉を頂戴した。
 御社のおじさんは呆れ顔で口を開く。
「じゃあ次の勤め先はいつ辞めるのか」
 別に辞めどきを考えているわけではなかったため、別に辞めどきは考えていないと伝えると、
「じゃあ長く続けるのだな」と続けて問う。
 何年勤めたか、は結果として現れる一つの形でしかなく、未来を決めかかって挑むのもよくないだろうと考え、長く続けるとも言ってないしすぐ辞めるとも言っていない、と伝えた。
「長く勤める気がない者を雇うことはできない」と御社のおじさんはさらに呆れる。
 まあ、そりゃそうでしょう。私も二十数年この世界で生きている。言わんとすることは重々わかる。わかった上で挑発をしているのである。
 これまでは雇用される者は組織に依存し組織は雇用した者を支配する構造がベターな組織のあり方だったのだろう。ただこれから先も同様の形で果たしてうまくいくのだろうかと、私の疑問はそこにある。雇用者は所属という受動的な姿勢と従属精神よりも、能動的な参加という姿勢と参加させてもらえるだけの能力が重視され、雇用主は参加意欲を駆り立てる熱い事業に取り組まればならない、それが未来における組織なのではと漠然とではあるがそう思い描いている。
 意図的にそうした姿勢を取っているのか御社のおじさんはとりあえず否定というスタンスであり、お互いの考えを知ろうと自由に話す雰囲気でもなく、描く組織論のベクトルが異なる両者の話し合いが成立する雰囲気では決してなかったため、結局へこへこしながら大人しくその場を済ませた。喧嘩を売る割には殴り合いを避けたがるのが私の長所である。というか、そもそも面接試験とは一般的に“一方的なアピールの場”であって“話し合いをする場”ではないのかもしれない。

<2>

 破壊。破壊への欲求。破壊を求めている自分がいる。次なる就職先を求め自己を振り返る過程でそう気づいた。
 何を破壊したいのか。自己だ。私は私を破壊したい、おそらくは。ついでに他者も破壊しよう、たぶんそう考えている。
 地方の貧困層に位置するだろう家庭に生まれ、家庭と学校以外の世界を知らず閉塞的な環境下で20年近く過ごし、就職を機に上京し4年ほど過ごした。上京してからの4年で得た情報量はそれ以前の20年で培ったものをはるかに上回るほどで、私の人生における最初の20年はあまりに小さくしょうもないものだったのだと思い知った。
 そのしょうもない20年を土台に築いた今の生活を、否定し、破壊し、土台の部分から再興したい。それがいま私が抱える本質的な欲求なのだと思う。逃避だけでは飽き足らないのだ。
 破壊とは、興隆への準備だ。人類は得てして破壊を経て文明を発展させてきた。明治期の銀座は大火災をきっかけに一早い西洋化へ至ったのであり、昭和期の日本は敗戦をきっかけに経済成長を遂げることができた。安定した現状という予防線を破壊し、不安の道に迷いこむことで再興は行われる。その破壊を、私は自分自身に遂行したい。
 破壊は大きな摩擦を生じさせる。意図的な破壊は難しく、だから人間は戦争や自然災害に破壊の機能を委ねたが、それらは当然のごとく大きすぎる犠牲を伴った。破壊に摩擦は必要だが、犠牲は必要でない。犠牲のない、大きな摩擦だけの破壊を、清らかで美しい破壊を。

 人間のシステムが変化する段階を比喩的に「戦前/戦中/戦後」として考える、もしくは「現状維持/否定と破壊/再興」と設定すべきか。現状は継続によって維持されるが、時に否定され破壊を被り、破壊された部分は再興される。再興されたその部分は現状を誘惑し、現状は次第に再興へと移行する。現状が移行した再興は次なる現状となり維持される。その現状はいつしかまた否定ののちに破壊される。全てその繰り返しなのではないだろうか。
 企業にしてもそうだ。現状維持を役割として担う企業、現状の否定と破壊に挑む企業、破壊に加わり再興に精を出す企業。きっとそれぞれの役割がある。私は破壊からの再興に挑みたいと就職活動を行うが、応募先が現状維持を目指していたのなら、採用試験にて方向性の違いは顕わとなるだろう。私が破壊への欲望と破壊から得る快楽をいくら語ろうとも御社のおじさんは呆れるだけだし、御社のおじさんがいくら現状維持への欲望と快楽を説こうとも私の腑に落ちることはない。

 私は私自身を破壊しなくてはならない。自身の中で喧嘩の売買を成立させなくてはならない。自己の破壊によって、自己を形成する自己以外のあらゆる他者をも破壊する。自己の破壊のために新たなる他者を渇望し、新たなる他者によって自己は破壊され、新たなる他者によって形成される新たなる自己は新たなる他者をも形成させる。新たなる自己は新たなる私を形成し、かつての私はどこかへ消え去る。だから私は環境を捨てた。だから私は環境を求める。
 過去に規定された私は、過去の否定と破壊という経験を経なければ過去を受け入れることはできない。過去の否定によって未来を築こう。私の手元には停滞によって生じた破壊衝動がある。一度すべてを終わらせる、そこにしかもう活路はない。
 破壊の末に解放を夢見る。美しく散り、醜く果てる。冷え枯れた先に見える寂れた景色へと。朽ち果てた身体で迎える地獄に祝福を。

 以上が近況です。今年は厄年らしい。

12月25日のやつ

 クリスマスが今年もやってくる。やってこない年もあったのかもしれず、今後一切やってこない可能性も零ではない。少なくとも今年は例年通りクリスマスがやってくる見込みであり、その証拠にクリスマスに照準を合わせるように経済は廻っており、都市はクリスマスカラーに染まっている。
 街のあちらこちらに絡まる発光ダイオードの蔓は一定間隔で熱を帯び、私の、あなたの、彼らの角膜と水晶体を通過し網膜に斑点状の火を灯す。無機質に点滅を続ける光源を瞳に宿した私は、あなたは、彼らは視神経を撼わす波動によってシナプスは発火し、神経伝達物質の放出と受容を進行させる。

 クリスマスが今年もやってくる。それは特別なようで当たり前のことであるが、其の実、当たり前のようで特別なことであるのかもしれない。赤い衣装に身を包んだ髭の者は口周りを覆う仰々しい体毛の奥でどんな表情をしているのだろう。微笑んでいようがほくそ笑んでいようが私には関係がない。あなたには関係がない。彼らには関係がない。それでも私が、あなたが、彼らがのさばる惑星が太陽の周囲をぐるりと回るその間、髭の者はその周期に一度姿を現し、即座に立ち去る。
 髭の者はその年の用が済むと茂った髭を剃り落とし、また一年かけて髭を蓄える。今年見た髭は今年限りであり、来年また会う機会が生じようと過去に見た髭はもうそこに存在しない。剃り落とされた髭は新たなる髭を呼び、新たなる髭は新たなる髭を連ねる。髭は生い茂り、夏には花を咲かせ、秋になると実を熟す。髭から収穫された実は白い大袋に詰め込まれ、出荷されるその時を待つ。人々の身にまとう布の量が一枚二枚と日に日に増えていき、冬が来る。大切に保管された白い大袋の中の実は、今か今かと自らの出番を待ち焦がれる。夜ふけ過ぎに雨が雪へと変わったその日、満を辞して髭の者は出発する。実の詰まった白い大袋を携え、鯨偶蹄目の生物と共に世界中の子どもたちにその実を届けていく。なんてことが到底あるはずもなく、そもそも我々は髭の者の存在を確認したことすらない。あるいは、私には髭の者どころか私自身の存在すら確証を得ることができておらず、あなたという存在をいかに認識しているかも甚だ不明であり、おそらくあなたも同様なのではないかと思う。
 私はあなたの顔を見て、あなたの名前を呼び、あなたの手に触れる。それぞれのパーツがあなたであり、パーツを統括した総体があなたであり、そのどれもがあなたではない。私にとってかろうじて確実と言えるのは、街を照らす電飾が私の目が受容するように、あなたが放つあらゆる波動が私という物体に何らかの作用をもたらしていることのみである。私は髭の者に触れた経験はおろか、名前を呼びかけたこともなく、目にしたことがあるかも定かではない。

 それでも子どもたちは見知らぬ髭の者に手紙を書き、プレゼントを要望し、見知らぬ髭の者からのプレゼントを手にする。その一連の行為は、私が見知らぬ御社の代表者や人事担当宛の手紙を書き、自己をプレゼンし、採用という名のプレゼントをいただこうと試みるそれに近い。
 私は手紙の宛先を探し、手紙を書く。御社は手紙を読み、返事を書く。返事の内容によっては私は見知らぬ御社の社員と見知り会う権利が与えられ、手紙を書いた当初は知る由もなかった手紙の宛先人を目にすることができる。子どもたちは多くの場合、手紙を書くだけでプレゼントを手にできるのかもしれない。あるいは手紙を書いた上でいい子にしていれば要望したものを受け取ることができるのだろう。しかし私はいい子であることを前提にいい子であると自ら主張しなくてはならない。ましてやいくらかいい子であるだけでは事足りず、いい子を上回るさらなるいい子でありながら、いい子とはいかなる存在なのかを懇切丁寧理路整然と主張しなければプレゼントを受け取ることはできないのである。私は私が何者であるかをわからないままにいい子を名乗らねばならないのだ。
 いっそ私も髭の者として雇ってもらえないものだろうかと、赤いフリースで寒さをこらえながら思う師走である。

<過去/現在/未来>と選択と私

 私の目に映るこの世界は、私が選んだ世界であり、あなたが選んだ世界であり、また、私が選ばなかった全ての世界であり、あなたが選ばなかった全ての世界である。瞬間ごとに生じるあらゆる選択肢を、眺めて、迷い、躊躇いながら、選ぶ。選ばれる。選ばず。選ばない。
 雑多に選んでは捨て、収納し、投げ置いた時間の断片は、無意識下で無意味に編集され、意味として意識下に現れる。その構成物は絶え間なく姿形を変え続け、取捨選択を繰り返し、意味なき意味の飽くなき生成を実行する。
 私はあなたは、何かを目指し一つの可能性を選択をする。選択された可能性は更なる可能性を紡ぎ、紡がれた可能性のために選ばれた選択と化す。私はあなたは、選択のために選択をする。可能性のために可能性を選ぶ。選び、選ばれ、呼び起こし、離散し、忘失され、それらは偶然に積み重なった必然として集合する。

 過去に対し、選ばなかった可能性を選んでいたらより良い現在があったのではと思うことも少なくないが、私は過去を選ぶことができない。過去なる構造物は、解釈不可能な全ての過去を解釈可能な一部の過去として、認識不可能な超越的存在を認識可能な内在的存在として、単純ながらに燦然と姿を見せる。全てで、一部の、超越的である、内在的なその構築物を目にした、理解未満の理解の中で、私未満の私という、存在未満の存在として成立する私は、過去を前に呆然と立ち尽くす他なく、これが現在なのだと確認する。
 ただし、構築された過去は即座に分解される。それが私の救いであり、あなたの救いである。分解された過去は分解される以前の過去の上に再構築され、分解し、構築する。

 私は働いていた。労働を。仕事を。毎日。時々。
 私は働いていなかった。労働を。仕事を。全く。何一つ。
 雨は降ることにより雨と呼ばれ、降る前は雨と呼ばれることはなかった。雨となる前の雨の素材は素材でしかなく、雨であるかもしれないが雨そのものではなかった。雨そのものにはなれなかった。地に落ちた雨も同様に。
 労働環境にいながら労働を感じられなかった私は、私でいながら私であることを感じられず、時を経ながら時を経ることができなかった。
 私未満の私未満の私となった私は、私を失い、私に見捨てられ、私に否定された。
 私は休んだ。労働を。仕事を。時々。毎日。
 私は辞めることにした。労働以外の。仕事以外の。環境と。環境を。

 現在の私が私でなくなったのは、過去の私が私でなくなる可能性をいくつか選び取り、そのいくつかが何かの縁として集合したためである。ならば、私でなくなった現在の私が、私である私の断片を未来に投げ置くためには、過去を、現在を、私でなくなった私を、意識的に離散させる可能性を選択すべきだ。
 だから私は書き換える。過去を、現在を、未来を、私を。

 私でなくなった私もまた私であり、私である私はまた私ではない。私を構築する私は私であり、私を構築しない私もまた私であるが、私は私ではなく、私ではない私は私のための私となる。
 あらゆる理解は誤りであり、あらゆる認識は誤認である。誤りは誤りを認め、多様な解釈を許容する。だから過去の私は現在の私を生成し、否定し、破壊し、私を再生成する。私はあなたは、過去に選択しなかった可能性の選択こそできないが、過去に選択したあらゆる可能性の認識を変更することが可能である。私があなたが選び選ばなかった可能性の上に成り立つ、本稿を介する私とあなたとの接触は、私とあなたの過去の断片となり、いつか認識し、認識されることなく、私をあなたをここではないどこかへ導き、導くことはない。

 繰り返される循環を循環し循環され、私は私の世界を認識し、あなたはあなたの世界を認識する。私と、あなたが、再びどこかで出会う時、私が私で、あなたがあなたであるように。
 私はある可能性を選択する。
 あなたはある可能性を選択する。
 私があなたが選択したあらゆる可能性と選択しなかった全ての可能性が、私とあなたの交点を生じさせる。
 過去を悔いる必要などなく、私はあなたは、今ある美しさを愛でることしかできない。愛でることをすればいい。

 私は現職を辞める選択をする。その選択は次なる可能性を呼ぶ。呼ばないかもしれない。いや、呼ばなくてもいい。それが私であり、私以外の全てであり、自然であり、世界であり、そのいずれでもないのだから。