落葉文集

落ちて廃れた言葉の連なり

彼の人が好きなaikoの曲は『えりあし』だった

〈1〉
 未来は無限で現在は永遠、だがそれも過去と化せば一瞬だ。今日あるものは明日もそこにあると無意識に信じてしまうが、自然は常に流動し続ける。常に空を見上げていても同じ形の雲を見つけることはできないように、私自身もどこかになにかの変化が生じており、昨日の自分が今日の自分と全く同じであるはずもない。身体を構築する細胞は分裂と消失を繰り返す。ならば、いま抱いている「好き」という感情が明日にはパタリと消えてしまっても何ら不思議ではなく、むしろいつかは消えてしまうのが当然なのだろう。それが自然の摂理だ。諸行は無常、だからいま抱いている「好き」を大切にすべきなのだ。
 それが全てだと思っていた、彼女と出会うまでは。

 彼女とは誰か、aikoだ。
 aikoは『えりあし』でこう歌う。

季節に逆らい想い続けて今もあなたを好きなままよ
『えりあし』

 aikoは従来変わってしまうのが当然とされる想いを普遍として我々に提示する。aikoがあなたに対して抱く「好き」は、今日のあなたへの想いであり、明日のあなたへの想いであり、昨日のあなたへの想いである。aikoの「好き」は〈好き/嫌い〉の二元論をも超越し、普遍へと到達する。有と無を同時に包容する限りなき「好き」だ。
 だからaikoaikoであり、aikoaikoとなる。aiko以外はaikoに至れず、aiko知らずして世界の真理に至れない。私たちがaikoを崇める理由の一つはおそらくそこにあるのではないだろうか。

 


aiko-『えりあし』music video short version

 

 

〈2〉
「私は『えりあし』が好き」
 彼の人が放った一言を私はいまだに覚えている。
 彼の人自身がその一言を覚えているかは定かではなく、その場面やその環境、私の存在だって彼の人の記憶にどう保管されているのか私にはわからない。かくいう私も、それが当時通っていた学校の中でのことだったのは覚えているが、どの季節のどの時間帯だったか、あるいは彼の人の口調、声、表情、仕草、そのいずれもが記憶の城から解き放たれ、この世の彼方へと離散している。
 それが自然の摂理であり、季節の移ろいであり、時間の経過というものだ。むしろ記憶というのは風化するからこそ愛おしさが増す。薄れた過去はその後の経験によって補完される。現在によって再構築された過去は新たなる過去となり姿を見せる。だから私はいま私の過去を記述している。愛おしさによって、愛おしさのままに、愛おしさに従って。
 私が覚えているその一言も事実ではないのかもしれない。音声としてありのままに保管されていない以上、私の頭の中で身勝手に創造された現実離れした彼の人による現実に放たれていない一言である可能性は誰にも否定できない。
「私は『えりあし』が好き」
 彼の人は確かにそう言った。季節に逆らい私の記憶に残り続けているそれは、私にとっての一つの真実だ。

 彼の人とは誰か、aikoではない。

 学校という同じ箱の中の、学級というさらに小さな同じ箱に収められた彼の人は、私の視界に存在していることが多かった。それは意識的だったのかもしれず、無意識的だったのかもしれず、無意識を装った意識的なものだったかもしれない。あるいは、網膜に投影される像から彼の人を照らす光を探し出すことを習慣化してしまっていたような気もする。私は彼の人を気にした、彼の人から見えている世界がどんな色をしているのか知りたかった。知ることはできなかった。知らなかった。知りたかった。
 私は彼の人のことを知らなかった。親しい間柄だったわけではなく、むしろ会話に及んだことすらろくになかったように思う。しかしそれでも、彼の人を構成させる物質から反射される光を私は受容し、その光の感受によって一方的な感情のざわつきをただただ覚えていた、ような気がする。それを人を好きになることと呼んでいいのか、私はいまだにわからない。おそらくは呼ばない方がいいのだろう。限られた空間のなかで接触を繰り返すうちに特定の人物をなんとなく気になってしまうその現象を、私は恋とは呼ばず、好意とも呼ばなかった。
 学校という閉鎖空間と思春期という歪みによって生み出される過剰な自意識を守りたくて、私は彼の人に話しかけることも近づくことも極力避けていた。彼の人がどこを見ているのか、ただただ遠くからなんとなく眺めていた。それだけのことなのだ。
 そんな彼の人を交えた場で、どうしてそんな話になったのかはわからない。でも確かに聴いたのだ。彼の人はaikoの『えりあし』が好きだった。
 私は彼の人のことを何も知らなかったが、彼の人が好きなaikoの曲を知った。彼の人は『えりあし』が好きと言った。それでよかった。それだけで十分だった。そよ風にすら満たない程に小さく、何の足しにもならない程にわずかだったかもしれないが彼の人が見ている世界を見せてもらえたような気がした。

一度たりとも忘れた事はない 少しのびた襟足を あなたのヘタな笑顔を
『えりあし』

 彼の人が誰かを想い続けているとして、その誰かなる存在のどこに特別性を感じるのだろうか。のびた襟足を見ているかもしれない、ヘタな笑顔を見ているかもしれない、きっと他の人たちにはわからない彼の人だけのあなたが見えているのだろう。彼の人が他者に感じる特別な部分を知る由が私にはないことに私は気づいていた。彼の人にとってのあなたが私ではないことに私は気づいていた。彼の人にとってのあなたは私ではないのと同時に、私にとってのあなたも彼の人ではないことを私は知っていた。私は視界にいた彼の人のどこに彼の人を感じていたのか、今となっては何一つ思い出すことはできない。

 

〈3〉

時は経ち目をつむっても歩ける程よ あたしの旅
『えりあし』

 時は経った。当時の私が何を想い、何を感じ、何を求めて彼の人を見ていたのか、なぜ彼の人がいまだに印象に残っているのか、その理由を知る者は、世界中のどこを探そうと見つかりはしない。どんなに考えて収まりのよい回答を出そうと、それは現在から推測される過去であり、現在として投影された過去ではない。
 それでもあの時あの場所に、何かを想い、何かを感じ、何かを求めて彼の人を見ていた私は確かに存在した。幾度季節が流れ過ぎようと、そいつは揺るぎなく存在し続けるはずだ。幾度季節が流れ過ぎようと、現在の私が時を理由に彼の人の姿や名前を忘却しようと、私という存在はそいつを経由した上で成り立っている事実は未来永劫つきまとうはずだ。
 今日の私と昨日の私は異なるのかもしれない。昨日の私を構成した粒子は今日の私を構成していないのかもしれない。それでも昨日の私を構成した粒子は世界に存在し、今日の私を構成する粒子は明日以降の何かを構成し続ける。それはいつか破壊され、その破壊は何かを新たに創出し、新たな何かは新たな何かの構築に携わる。

 彼の人を見ていた私を構成していたなにがしは、いまもなにかの形で存在している。

5年後あなたを見つけたら 背筋を伸ばして声を掛けるね
『えりあし』

 背筋が伸びた私は、当時の私とは異なっているだろう。あなたの中からも、私の好きだった少しのびた襟足はなくなっているかもしれないし、ぎこちない笑顔ももう見れないのかもしれない。
 それでも私は声を掛ける。もう会うことはないと思っていたあなたを、何かの拍子で見かけたのなら。見つけることができたのなら。背筋を伸ばして。5年後の私で。5年後のあなたへ。あのときの私のまま。あのときのあなたのまま。

 

〈4〉

 私はあなたの好きなaikoの曲を知らなかった
 私はあなたが好きなaikoの曲を知らない。
 私はあなたが好きなaikoの曲を知りたい。
 私はあなたが好きなaikoの曲を知りたかった。
 私はあなたが好きなaikoの曲を知ることができた。
 知らない。知りたい。知りたかった。知ることができた。知れたのかもしれない。知ることができなかった。知らなかった。それでも知りたかった。知りたかった。

 彼の人が好きなaikoの曲は『えりあし』だった。

退職後の近況(再就職先を探すにあたってのあれこれなどを)

<1>

 昨年いっぱいで職を辞し、最近は再就職先を探す活動に励んでいる。いや、“励んでいる”とはあまりに誇張な表現。自由という錯覚を覚えながら穏やかな時間を過ごす日々の中で生活費という現実に少しずつ身体を蝕まれ、削られた身体のほころびをたまに確認してはやれやれと重い腰を上げ、転職サイトへアクセスし画面を一通り眺めて何かをした気になる、それがありのままの現状だ。

 次なる職探しを開始してからおそらく3ヶ月ほど経つ。本格的に取り組み始めたのは前職を退いた後だったが、病気休暇中にも暇つぶし程度にぼちぼちと求人広告を探しては応募をしていた。その頃はまだ時間的経済的に余裕があったため、インターネットに点在した就職活動マニュアルに目を通しては馬鹿馬鹿しいと一蹴し、ある程度のルール化を経て現代スポーツの認定も秒読みとなった就職活動なる競技に、どこまで自由な戦法が通じるのだろうかと御社各位に提出する書類を実験的に書くなどしていた。具体的には、御社や業界や社会を挑発するような内容の志望動機や自己PRをひたすら書いた。一生懸命売り込んだその喧嘩を買ってくれる企業はあまりなかった。

 切迫感を感じることなくのんびりと応募を出したり出さなかったりしていたわけだが、先日、ようやく某社の書類選考に通過し面接を受けることができた。
 前職を辞めた理由を訊かれた。前職に就いた理由が当時身を置いていた環境からの逃避であり、就いた時点で逃避の目的を達成していたためむしろ続ける理由がなかった、と何一つ脚色することなく素直に回答したところ、継続への意欲のなさが逆鱗に触れたらしく御社のおじさんよりお怒りのお言葉を頂戴した。
 御社のおじさんは呆れ顔で口を開く。
「じゃあ次の勤め先はいつ辞めるのか」
 別に辞めどきを考えているわけではなかったため、別に辞めどきは考えていないと伝えると、
「じゃあ長く続けるのだな」と続けて問う。
 何年勤めたか、は結果として現れる一つの形でしかなく、未来を決めかかって挑むのもよくないだろうと考え、長く続けるとも言ってないしすぐ辞めるとも言っていない、と伝えた。
「長く勤める気がない者を雇うことはできない」と御社のおじさんはさらに呆れる。
 まあ、そりゃそうでしょう。私も二十数年この世界で生きている。言わんとすることは重々わかる。わかった上で挑発をしているのである。
 これまでは雇用される者は組織に依存し組織は雇用した者を支配する構造がベターな組織のあり方だったのだろう。ただこれから先も同様の形で果たしてうまくいくのだろうかと、私の疑問はそこにある。雇用者は所属という受動的な姿勢と従属精神よりも、能動的な参加という姿勢と参加させてもらえるだけの能力が重視され、雇用主は参加意欲を駆り立てる熱い事業に取り組まればならない、それが未来における組織なのではと漠然とではあるがそう思い描いている。
 意図的にそうした姿勢を取っているのか御社のおじさんはとりあえず否定というスタンスであり、お互いの考えを知ろうと自由に話す雰囲気でもなく、描く組織論のベクトルが異なる両者の話し合いが成立する雰囲気では決してなかったため、結局へこへこしながら大人しくその場を済ませた。喧嘩を売る割には殴り合いを避けたがるのが私の長所である。というか、そもそも面接試験とは一般的に“一方的なアピールの場”であって“話し合いをする場”ではないのかもしれない。

<2>

 破壊。破壊への欲求。破壊を求めている自分がいる。次なる就職先を求め自己を振り返る過程でそう気づいた。
 何を破壊したいのか。自己だ。私は私を破壊したい、おそらくは。ついでに他者も破壊しよう、たぶんそう考えている。
 地方の貧困層に位置するだろう家庭に生まれ、家庭と学校以外の世界を知らず閉塞的な環境下で20年近く過ごし、就職を機に上京し4年ほど過ごした。上京してからの4年で得た情報量はそれ以前の20年で培ったものをはるかに上回るほどで、私の人生における最初の20年はあまりに小さくしょうもないものだったのだと思い知った。
 そのしょうもない20年を土台に築いた今の生活を、否定し、破壊し、土台の部分から再興したい。それがいま私が抱える本質的な欲求なのだと思う。逃避だけでは飽き足らないのだ。
 破壊とは、興隆への準備だ。人類は得てして破壊を経て文明を発展させてきた。明治期の銀座は大火災をきっかけに一早い西洋化へ至ったのであり、昭和期の日本は敗戦をきっかけに経済成長を遂げることができた。安定した現状という予防線を破壊し、不安の道に迷いこむことで再興は行われる。その破壊を、私は自分自身に遂行したい。
 破壊は大きな摩擦を生じさせる。意図的な破壊は難しく、だから人間は戦争や自然災害に破壊の機能を委ねたが、それらは当然のごとく大きすぎる犠牲を伴った。破壊に摩擦は必要だが、犠牲は必要でない。犠牲のない、大きな摩擦だけの破壊を、清らかで美しい破壊を。

 人間のシステムが変化する段階を比喩的に「戦前/戦中/戦後」として考える、もしくは「現状維持/否定と破壊/再興」と設定すべきか。現状は継続によって維持されるが、時に否定され破壊を被り、破壊された部分は再興される。再興されたその部分は現状を誘惑し、現状は次第に再興へと移行する。現状が移行した再興は次なる現状となり維持される。その現状はいつしかまた否定ののちに破壊される。全てその繰り返しなのではないだろうか。
 企業にしてもそうだ。現状維持を役割として担う企業、現状の否定と破壊に挑む企業、破壊に加わり再興に精を出す企業。きっとそれぞれの役割がある。私は破壊からの再興に挑みたいと就職活動を行うが、応募先が現状維持を目指していたのなら、採用試験にて方向性の違いは顕わとなるだろう。私が破壊への欲望と破壊から得る快楽をいくら語ろうとも御社のおじさんは呆れるだけだし、御社のおじさんがいくら現状維持への欲望と快楽を説こうとも私の腑に落ちることはない。

 私は私自身を破壊しなくてはならない。自身の中で喧嘩の売買を成立させなくてはならない。自己の破壊によって、自己を形成する自己以外のあらゆる他者をも破壊する。自己の破壊のために新たなる他者を渇望し、新たなる他者によって自己は破壊され、新たなる他者によって形成される新たなる自己は新たなる他者をも形成させる。新たなる自己は新たなる私を形成し、かつての私はどこかへ消え去る。だから私は環境を捨てた。だから私は環境を求める。
 過去に規定された私は、過去の否定と破壊という経験を経なければ過去を受け入れることはできない。過去の否定によって未来を築こう。私の手元には停滞によって生じた破壊衝動がある。一度すべてを終わらせる、そこにしかもう活路はない。
 破壊の末に解放を夢見る。美しく散り、醜く果てる。冷え枯れた先に見える寂れた景色へと。朽ち果てた身体で迎える地獄に祝福を。

 以上が近況です。今年は厄年らしい。

12月25日のやつ

 クリスマスが今年もやってくる。やってこない年もあったのかもしれず、今後一切やってこない可能性も零ではない。少なくとも今年は例年通りクリスマスがやってくる見込みであり、その証拠にクリスマスに照準を合わせるように経済は廻っており、都市はクリスマスカラーに染まっている。
 街のあちらこちらに絡まる発光ダイオードの蔓は一定間隔で熱を帯び、私の、あなたの、彼らの角膜と水晶体を通過し網膜に斑点状の火を灯す。無機質に点滅を続ける光源を瞳に宿した私は、あなたは、彼らは視神経を撼わす波動によってシナプスは発火し、神経伝達物質の放出と受容を進行させる。

 クリスマスが今年もやってくる。それは特別なようで当たり前のことであるが、其の実、当たり前のようで特別なことであるのかもしれない。赤い衣装に身を包んだ髭の者は口周りを覆う仰々しい体毛の奥でどんな表情をしているのだろう。微笑んでいようがほくそ笑んでいようが私には関係がない。あなたには関係がない。彼らには関係がない。それでも私が、あなたが、彼らがのさばる惑星が太陽の周囲をぐるりと回るその間、髭の者はその周期に一度姿を現し、即座に立ち去る。
 髭の者はその年の用が済むと茂った髭を剃り落とし、また一年かけて髭を蓄える。今年見た髭は今年限りであり、来年また会う機会が生じようと過去に見た髭はもうそこに存在しない。剃り落とされた髭は新たなる髭を呼び、新たなる髭は新たなる髭を連ねる。髭は生い茂り、夏には花を咲かせ、秋になると実を熟す。髭から収穫された実は白い大袋に詰め込まれ、出荷されるその時を待つ。人々の身にまとう布の量が一枚二枚と日に日に増えていき、冬が来る。大切に保管された白い大袋の中の実は、今か今かと自らの出番を待ち焦がれる。夜ふけ過ぎに雨が雪へと変わったその日、満を辞して髭の者は出発する。実の詰まった白い大袋を携え、鯨偶蹄目の生物と共に世界中の子どもたちにその実を届けていく。なんてことが到底あるはずもなく、そもそも我々は髭の者の存在を確認したことすらない。あるいは、私には髭の者どころか私自身の存在すら確証を得ることができておらず、あなたという存在をいかに認識しているかも甚だ不明であり、おそらくあなたも同様なのではないかと思う。
 私はあなたの顔を見て、あなたの名前を呼び、あなたの手に触れる。それぞれのパーツがあなたであり、パーツを統括した総体があなたであり、そのどれもがあなたではない。私にとってかろうじて確実と言えるのは、街を照らす電飾が私の目が受容するように、あなたが放つあらゆる波動が私という物体に何らかの作用をもたらしていることのみである。私は髭の者に触れた経験はおろか、名前を呼びかけたこともなく、目にしたことがあるかも定かではない。

 それでも子どもたちは見知らぬ髭の者に手紙を書き、プレゼントを要望し、見知らぬ髭の者からのプレゼントを手にする。その一連の行為は、私が見知らぬ御社の代表者や人事担当宛の手紙を書き、自己をプレゼンし、採用という名のプレゼントをいただこうと試みるそれに近い。
 私は手紙の宛先を探し、手紙を書く。御社は手紙を読み、返事を書く。返事の内容によっては私は見知らぬ御社の社員と見知り会う権利が与えられ、手紙を書いた当初は知る由もなかった手紙の宛先人を目にすることができる。子どもたちは多くの場合、手紙を書くだけでプレゼントを手にできるのかもしれない。あるいは手紙を書いた上でいい子にしていれば要望したものを受け取ることができるのだろう。しかし私はいい子であることを前提にいい子であると自ら主張しなくてはならない。ましてやいくらかいい子であるだけでは事足りず、いい子を上回るさらなるいい子でありながら、いい子とはいかなる存在なのかを懇切丁寧理路整然と主張しなければプレゼントを受け取ることはできないのである。私は私が何者であるかをわからないままにいい子を名乗らねばならないのだ。
 いっそ私も髭の者として雇ってもらえないものだろうかと、赤いフリースで寒さをこらえながら思う師走である。

<過去/現在/未来>と選択と私

 私の目に映るこの世界は、私が選んだ世界であり、あなたが選んだ世界であり、また、私が選ばなかった全ての世界であり、あなたが選ばなかった全ての世界である。瞬間ごとに生じるあらゆる選択肢を、眺めて、迷い、躊躇いながら、選ぶ。選ばれる。選ばず。選ばない。
 雑多に選んでは捨て、収納し、投げ置いた時間の断片は、無意識下で無意味に編集され、意味として意識下に現れる。その構成物は絶え間なく姿形を変え続け、取捨選択を繰り返し、意味なき意味の飽くなき生成を実行する。
 私はあなたは、何かを目指し一つの可能性を選択をする。選択された可能性は更なる可能性を紡ぎ、紡がれた可能性のために選ばれた選択と化す。私はあなたは、選択のために選択をする。可能性のために可能性を選ぶ。選び、選ばれ、呼び起こし、離散し、忘失され、それらは偶然に積み重なった必然として集合する。

 過去に対し、選ばなかった可能性を選んでいたらより良い現在があったのではと思うことも少なくないが、私は過去を選ぶことができない。過去なる構造物は、解釈不可能な全ての過去を解釈可能な一部の過去として、認識不可能な超越的存在を認識可能な内在的存在として、単純ながらに燦然と姿を見せる。全てで、一部の、超越的である、内在的なその構築物を目にした、理解未満の理解の中で、私未満の私という、存在未満の存在として成立する私は、過去を前に呆然と立ち尽くす他なく、これが現在なのだと確認する。
 ただし、構築された過去は即座に分解される。それが私の救いであり、あなたの救いである。分解された過去は分解される以前の過去の上に再構築され、分解し、構築する。

 私は働いていた。労働を。仕事を。毎日。時々。
 私は働いていなかった。労働を。仕事を。全く。何一つ。
 雨は降ることにより雨と呼ばれ、降る前は雨と呼ばれることはなかった。雨となる前の雨の素材は素材でしかなく、雨であるかもしれないが雨そのものではなかった。雨そのものにはなれなかった。地に落ちた雨も同様に。
 労働環境にいながら労働を感じられなかった私は、私でいながら私であることを感じられず、時を経ながら時を経ることができなかった。
 私未満の私未満の私となった私は、私を失い、私に見捨てられ、私に否定された。
 私は休んだ。労働を。仕事を。時々。毎日。
 私は辞めることにした。労働以外の。仕事以外の。環境と。環境を。

 現在の私が私でなくなったのは、過去の私が私でなくなる可能性をいくつか選び取り、そのいくつかが何かの縁として集合したためである。ならば、私でなくなった現在の私が、私である私の断片を未来に投げ置くためには、過去を、現在を、私でなくなった私を、意識的に離散させる可能性を選択すべきだ。
 だから私は書き換える。過去を、現在を、未来を、私を。

 私でなくなった私もまた私であり、私である私はまた私ではない。私を構築する私は私であり、私を構築しない私もまた私であるが、私は私ではなく、私ではない私は私のための私となる。
 あらゆる理解は誤りであり、あらゆる認識は誤認である。誤りは誤りを認め、多様な解釈を許容する。だから過去の私は現在の私を生成し、否定し、破壊し、私を再生成する。私はあなたは、過去に選択しなかった可能性の選択こそできないが、過去に選択したあらゆる可能性の認識を変更することが可能である。私があなたが選び選ばなかった可能性の上に成り立つ、本稿を介する私とあなたとの接触は、私とあなたの過去の断片となり、いつか認識し、認識されることなく、私をあなたをここではないどこかへ導き、導くことはない。

 繰り返される循環を循環し循環され、私は私の世界を認識し、あなたはあなたの世界を認識する。私と、あなたが、再びどこかで出会う時、私が私で、あなたがあなたであるように。
 私はある可能性を選択する。
 あなたはある可能性を選択する。
 私があなたが選択したあらゆる可能性と選択しなかった全ての可能性が、私とあなたの交点を生じさせる。
 過去を悔いる必要などなく、私はあなたは、今ある美しさを愛でることしかできない。愛でることをすればいい。

 私は現職を辞める選択をする。その選択は次なる可能性を呼ぶ。呼ばないかもしれない。いや、呼ばなくてもいい。それが私であり、私以外の全てであり、自然であり、世界であり、そのいずれでもないのだから。

逆立ち

 逆立ちをしている。

 もちろんいま逆立ちをしながら文字を打っているという意味ではない。逆立ちとはすなわち通常の起立状態とは上下反対に直立する行為であり、逆立ち中において手は床ないしは地面とぴったり触れ合っている。その状況で文字を書くことなぞ到底できない
 しかし人間の進歩は計り知れず、有史以来遺伝情報に依らずとも未来方向への情報伝達を容易に行い続けることで加速度的にヒトという生物の可能性が広がっているのはわたしがいま操作しているMacBookやあなたがいま手にしているだろうスマートフォン等々からも明らかである。つまり現状において常識的とされる認識から不可能であると判断されることも未来永劫普遍的に不可能と断言するのはいささか短絡的であり、逆立ちしながら文字を入力することも不可能とは言い切れず、というか、逆立ちしながら音声入力をすれば済む話であり、せいぜい人差し指の運動さえある程度の自由が利く状況であれば手のひらを地面と触れ合わせた状態でも文字を書くことは到底できないということはない。強いていうならば個々の筋力の問題による。
 
 逆立ちをしている。
 もちろんいま現在逆立ちをしているのではない。最近、逆立ちを日課にしている。
 逆立ちを日課とした理由はただ一つ。いかに文化的な生活を営なもうとも人間もヒトという生物の一種であり、日々あらゆる生存活動を行わなければならない。日々の生活を送ることは生存していることと同義である、至極当然だ。生命体である以上我々に無のなかの無を選択する余地はなく、いつ何時であろうともなんらかの活動に励まなければならない。活動を行うためには身体の操縦が求められ、身体なる物質を機能させるためには身体が求められる。これまた当然だ、わたしはMacBookがなければMacBookを操作することができず、本があるから本を読むことができ、目の前に箸が置かれただけでは炊きたてのごはんを食べることはできない。己の身体を動かすためには己の身体を動かせる状態へ導かねばならない。要するに今のわたしには充分と胸を張れるだけの体力がなく、身長177センチのヒトの重量が50キロ前後で満足なはずがない。そういえばここのところは日常動作で体を動かすだけで疲労感に苛まれいちいち睡魔が戦闘を挑んでくる。そして負ける。仮にもピチピチの二十代前半。著しい身体的衰えを感じるには流石に時期尚早。このままじゃあいかん。とはいえ、運動する体力もなければ筋トレなんて以ての外。そこで辿りついたのが逆立ちである。

 逆立ち。言ってしまえば直立しているだけであるため過度な負荷もかからず、腕の筋力が根を上げるより頭に血がのぼる方の限界が先にくるから下手に無理をする危険性もない。かと思えば、普段使用しない筋肉を使用するため、日頃積極的身体運動(エゲレス人が言うところのスポーツである)を全くしない身にとっては程よい骨格筋の出力を行える。自宅で行える上、壁さえあれば即座に実行可能であり、継続させやすいメリットもある。心なしか姿勢が良くなっている気もする。

 そんなわけで逆立ちをしている。近況である。
逆立ちをすると視界が180度回転する。いつもの風景も、風景といっても自宅内ではあるのだが、逆さに眺めることで見過ごしていた箇所に気がついたり、直立状態では到底得られないインスピレーションが容易が生まれたりする。なんてことがあるわけもなく、逆立ちをしている最中に正面を向く機会に恵まれることは少ないし、基本的には上すなわち床を直視することになる。
 しかし、自己とはつまり他者でない存在であり、他者とは環境のことだ。認識する他者Aでない存在のわたしも、身をおく環境をAからBへ転じることで認識する他者Bでない存在のわたしになることだって可能であるはずだろう。
 それならば他者Aでないわたしが逆立ちをすることで、他者∀でないわたしになれたっていいはずだ。
 行き詰まったときは試しに逆立ちをしながら音声入力で作文をしてみるのもおもしろいかも知れない。
 その日が来るのに備えて、わたしは今日も逆立ちに励むのである。

 

会話のリハビリ

 9月末に休職期間延長の書類手続きに際して職場へ赴き課長と少し話をして以来、クラブへ遊びに行ってどんどこ音楽が鳴り響く中で会話をする機会こそあったけれど、ゆっくり腰を据えて長尺の会話をする機会が遠退いているなと気づき、振り返ってみると課長との云々から3週間ほど経過しており、ああずいぶんと会話とはご無沙汰しているわけですなあとSNSでフォロワーと文字のやり取りをする片手間で思う。そして課長との云々から3週間ほど経過しているのであれば、それは休職期間の延長分を3週間ほど消化したことと同義であり、転職に向けて重い腰を上げる気持ちも小程度湧き出し、とりあえず証明写真を撮った。5年ぶりのスピード写真は思ったより難しいし、箱の中は思ったより狭いし、出来上がった写真は私のメガネからピサの斜塔ほどの傾きが生じている事実を明らかにする。

 メガネのズレに気づく前日、3週間ぶりにゆっくり腰を据えて人と会話する機会を得たが、どんな世界においても3週間のブランクが習慣に対する非常に大きい難であることは想像に容易く、[3週間 ブランク]で試しに検索をかけてみたところブランク後のランニングのしんどさが綴られたブログがわんさか出てくる。会話もランニングと同様で、3週間も実施の機会に恵まれなければ声は出ないわリアクションは薄いわでとにかくエネルギーを会話に充てる方法がわからなく、相手はAIと会話するアプリとコミュニケーションした方がよっぽどたのしいのではないかしらんと大変申し訳ない気持ちになる。相手の弁に対し気の利いた返答をするなんて以ての外である。

 転職活動にあたり面接やらなんやらで話せなくなるのはさすがにまずいと思い、小中高と同じ学校へ通い気心の知れた地元の友人へ電話をかけてみると、難しさこそあれど好き勝手におしゃべりする段階には至り、今後の会話リハビリに協力してもらうべくそれとなく「また近くにでも電話しようぜ」と伝え通話を切った。

 3週間も間が空いたのにも関わらず、機会が与えられる時にはゲリラ的にどかっと一気に降りかかってくるため、3週間ぶりの機会を得たのも束の間、明日明後日とゆっくり腰を据えて人と会話をする予定があるし、今度どっか行きましょうと口約束をした件も数件あるためそれらも都合を合わせて近々実行に移させてもらいたいし、なるべく人と話す機会は定期的に設けたいなと考えている所存ではある。

 その一方で、人と話すということは相手の時間を拘束することであり、自分は時間を持て余す者だから全く構わないが多忙を極める現代人諸氏に対し「私めとお話しする機会を頂戴できないでしょうか」と伺いを立てるのはどうにも申し訳なさが勝ってしまい、こちらから誘いをしたり都合を問うたりに踏み切れないことも大変に多い。相手が忙しかったら断ればいいだけの話ではあるので好き勝手に伺いを立てればいいのだけど、Noと言えない日本人というステレオタイプが邪魔をし「忙しいところを無理に都合をつけていただいてしまった場合に、一凡夫である私にそのお詫びをすることができるだろうか、答えは否であろう」と勝手に問いを立てては勝手に回答を導き出し、自分に対しては好き勝手できるけど他人に対し好き勝手は難しいですよね、と人目を気にしながら生涯を全うする決心をするのである。

 そんな自問自答の末にたどり着いたのが、都内各地で行われている対談イベントへ足を運ぶという遊びである。対価を支払うことで心を軽くしながら有識者のお話を拝聴できる素晴らしさに感動しつつ、この遊びは勉強にはなるが会話のリハビリには決してならないという事実に気付きながらも目を向けないようにして対談イベントの観覧予約を入れまくる日々である。

 人が人を好きになるとき対象のどの面について好意的感情が発生するのかを考えたところで人間は大変な多面性によって社会を生活しており、また、その多面性の中で相反する要素を同時に抱えることも往往にしてある。

 例えば、あなたは好きな人のタイプとして「やさしい人」を公言しており、いまパートナーとなっている人も実に「やさしい人」であるとしよう。ここで記される「やさしい」がなにをどうもって「やさしい」とされるのかは入念な議論の必要性があるが、この際それは大きな問題ではなく、あなたの正義感に基づいたいまのあなたなりのやさしさをイメージしてもらえれば良い。「やさしい」について深く考えようとする試みこそが何より「やさしい」行為とも言えるし、頭で考えたやさしさも実践不可であれば「やさしい」にはならないと批判することが「やさしい」とも言えるが、この場においてその差はやはり大きな問題にはならない。あなたが定めた「やさしい」と同じベクトルを向いた「やさしい人」であるパートナーの方を上回る人間が現れた場合、そこに互換性は生じるかといえばそれは否であろうと、要するにある個人の視点において別の個人は代替不可能な存在にもなり得るだろうと示したかったのだが、もはやそれすらも大した問題にはならないのかもしれない。

 人が人を好きになったとき、対象自体がどんな存在であるかではなく、自分にとって対象がどんな存在であるか、つまりは自分と相手が共有した時間が自分にとって美しいものであるかに起因しているのだと思う。好意的感情は対象が経験と記憶を引き起こすことによって生じるのではないか、と。

 対象は人だけに限らず、例えば好きな色についても同様なことが言えるかもしれない。そして色といえば、あるいはあなたはあることに違和感を抱えているかもしれない。なぜこの文章は青で書かれているのだろうか、青で書かれていることはなんの伏線なのだろうかと。もしあなたがこうした疑問を抱えている場合、その疑問は正しいとも言えるし、間違っているとも言えるのである。この場においてその差は大きな問題にはならないのだが、違和感を抱えるが故に読み進めることをやめてしまうことを防ぐため説明を示そう。私はいまこの文章を赤字で書き進めている。そして投稿直前にフォントを青字に変更しようと考えている。書き進めている現在において、そう考えているだけであるため、青字に変更せず赤字のまま記事を公開するかもしれないし、青字ではなく緑字に変更するかもしれない。あなたがいま青字で書かれた文章を読んでいる場合は私の予定は遂行されたことの証であり、そうでない場合は当初の予定を修正あるいは単に達成できなかったことによる。つまり本記事でどんな文字色を用いられているかは大した問題にはならない。

 好きな色について記そう。人の好きな色なんてどうでもいいと思う者も多いとは思うが、少なくとも友人の好きな色くらいは把握しておくと大変便利である。例えば、その友人にプレゼントを買おうと思ったとき、好きな色を把握しておくと買おうと思った商品に色のバリエーションがあった際に迷わずに済む。些細なことではあるが、プレゼントをもらった者は好きな色をズバリと的中されたら喜びは増すかもしれないし、好きな色を覚えてもらえている事実に嬉しさを感じるかもしれない。ただし、好きな色を選ばなかったとしても、近しい関係性の人物から何らかの贈呈を受ける体験自体がプレゼントをもらう者にとって嬉しいことであると仮定した場合、プレゼントする物が赤であろうと青であろうと大きな問題にはならないのかもしれない。プレゼントする者は代替不可能だが、プレゼントする物は代替可能である。

 私の好きな色は赤である。だからというわけではないが前述のとおり本記事は赤で綴っている。思えば、小学生の頃は水色が好きだった気がするし、戦隊ヒーローで好きなキャラは赤ではなく青だった。小学生の頃は水色が好きだったのは、ランドセルの赤は女子児童が使用するといった刷り込みによる赤に対する抵抗感のせいかもしれず、水色の持つどこか涼しげな爽やかさに憧れていたのかもしれないし、クラスの人気者だったみずきちゃんの名前に似ていたからかもしれない。いま赤が好きなのは、中学高校の頃の部活動のジャージの色が赤だったことによる接触回数の多さのせいかもしれず、高校生の頃にもっぱら青ペンで授業のノートをとっていたことで青に対する嫌悪感が生じてしまったのかもしれず、歳を重ねる毎に訪れるクリスマスシーズンによってサンタコスに萌えを感じるようになったせいなのかもしれない。いずれにしてもそれらの差は気にかけるほどのことではなく、好きな色が赤であろうと青であろうと、本記事で用いられる文字色と同様に大した問題ではない。

 私が赤で書いた文字をあなたは青い文字で読む。色が与える心理的な作用がなんらかの印象変化を与えるかもしれないが、赤で書かれた本記事と青で書かれた本記事の差を知るのは、わざわざコピペして赤に変更して読み直す奇特な者が現れない限りにはおそらく私だけであるため、本記事を読むにあたり文字色は大した問題ではなく、仮に赤字と青字との間に差があったところでやはり問題はないように思う。

 これは好意についての記述であり、記憶についての記述であり、あるいは何一つ意味のない文字列である。人間は過去を記憶し未来を想像することのできる動物であり、私たちの行動は過去に突き動かされ、または未来に引き寄せられ、あるいはそのどちらでもないのかもしれず、それが大きな問題になるかについては私の想像でははるかに及ばないのである。